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上鴻之舞小学校跡|鴻之舞鉱山の閉山5年前に消えた学校と、その後の歴史【紋別市】

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紋別市立上鴻之舞小学校の跡地にある「学舎の里」の記念碑 廃校
道路脇に立つ「学舎の里」の碑。ここに上鴻之舞小学校があった。

北海道紋別市、鴻之舞のさらに奥にある上鴻之舞(かみこうのまい)。道路脇に「学舎の里」と刻まれた石碑が残っていた。かつてここには、1930(昭和5)年に開校した紋別市立上鴻之舞小学校があった。

上鴻之舞は、近くの鴻之舞鉱山とも関わりながら人々が暮らした地域だ。しかし、小学校が閉じたのは1968(昭和43)年3月31日。鉱山が閉山する5年も前のことだった。

学校がなくなった後、校舎の木材は紋別市街の幼稚園へ渡り、跡地も別の用途に使われるようになった。今は林に埋もれたコンクリートの基礎や、草の下に倒れた古い看板が残っている。現地で見たものと記録を重ね、学校があった頃からその後までをたどってみたい。

紋別市立上鴻之舞小学校跡の石碑「学舎の里」
「学舎の里」と刻まれた上鴻之舞小学校跡の記念碑。

上鴻之舞小学校跡に残る「学舎の里」の碑

道路から見える石碑には、「紋別市立上鴻之舞小学校」の校名が刻まれている。裏側を回ると、次の年月が記されていた。

  • 開校:1930(昭和5)年9月10日
  • 閉校:1968(昭和43)年3月31日
  • 石碑建立:1997(平成9)年11月、紋別市教育委員会
上鴻之舞小学校の開校1930年9月10日・閉校1968年3月31日を記す石碑裏面
記念碑の裏面に刻まれた開校・閉校年月日。

開校当初は鴻之舞尋常小学校に属する上鴻之舞特別教授場として始まり、1936(昭和11)年に独立したとする記録がある。1941(昭和16)年には児童数が最多の106人に達したという。学校沿革と児童数を紹介した現地記録には、閉校時の児童数はわずか8人だったとある。

別の廃村調査記録には、1959(昭和34)年の児童数が61人と記されている。1941年の106人、1959年の61人、そして閉校時の8人。数十年を隔てた数字を並べるだけでも、地域の子どもたちが減っていった様子が見えてくる。

鴻之舞鉱山の閉山5年前、上鴻之舞小学校は廃校に

上鴻之舞の歴史を考えるとき、鴻之舞鉱山の存在は欠かせない。金鉱山として発展した鴻之舞には大勢の人が集まり、山間部に住宅や学校、生活に必要な施設が築かれた。

ただし、上鴻之舞を鉱山住宅だけの集落と考えるのは少し違うようだ。廃村の調査記録では、上鴻之舞には農山村集落としての性格もあり、鉱山関係の「昭和区」も含まれていたと紹介されている。学校には、鉱山に関わる家庭だけでなく、この一帯で生活を営む家々の子どもたちが通っていたのだろう。

鴻之舞鉱山が閉山したのは1973(昭和48)年5月24日。一方、上鴻之舞小学校が閉校したのは1968年3月31日。地域の学校は、鉱山の操業が続いている間に役目を終えていた。

山間部の学校が存続できなくなるほど、子どもの数が少なくなっていた。その背景には地域の人口移動や暮らしの変化があったはずだ。鉱山の閉山を待たずに学校がなくなったという事実は、集落の変化が一度に起きたのではなく、少しずつ進んでいたことを示している。

なお、ここから数キロ離れた鴻之舞小学校は別の学校で、鉱山閉山の年まで存続している。二つの学校の閉校年を区別すると、上鴻之舞の歩みがよりはっきりする。

上鴻之舞小学校跡の現在|旧校庭らしき平地と林のコンクリート基礎

記念碑から奥へ進むと、左側に広い平地が現れる。背の低い草が広がり、周囲を山に囲まれた一画だ。現地では、かつてのグラウンドだったのではないかと感じた。

山に囲まれた上鴻之舞小学校跡の広い草地
記念碑の奥、左側に広がる平地。かつての校庭だったのだろうか。

その一方、右側には林が続いている。木々の間へ目を向けると、落ち葉と苔に覆われたコンクリートの基礎が残っていた。

上鴻之舞小学校跡の平地と林、その間に見える低いコンクリート構造物
広い平地の奥に続く林。人工物らしい構造が見える。
上鴻之舞小学校跡の林の中に残る苔むしたコンクリート基礎
林の奥に残るコンクリートの構造物。

とくに気になったのは、ほぼ平行に延びる細長い基礎と、それを横切るように残る壁の配置だ。自然の段差とは明らかに違う。かつて何らかの建物や設備が置かれていたことを思わせる。

林に平行して延びる二本のコンクリート基礎
平行に延びる二本のコンクリート基礎。
上鴻之舞小学校跡の林と草地の間に残るコンクリート基礎
草地と林の境に残る基礎の位置関係。
林の中で落ち葉と草に埋もれたコンクリート遺構
落ち葉の下に続くコンクリートの遺構。

もし左の平地が校庭なら、その脇の林に校舎があったという配置は考えやすい。ただ、後にこの土地が別の用途で使われた記録もある。今残るコンクリートが学校時代のものか、その後の施設のものかは、建物の配置が分かる当時の図面や航空写真と重ねて確かめたい部分だ。

廃校舎の木材は紋別大谷幼稚園へ渡っていた

上鴻之舞小学校の歴史には、閉校後の意外な続きがある。

道民雑誌『月刊クォリティ』が2019年に掲載した紋別大谷学園の創立50周年記事によると、紋別大谷幼稚園は、廃校になった上鴻之舞小学校の校舎から木材の払い下げを受けて開園した。

紋別大谷学園が学校法人として認可されたのは1969(昭和44)年12月。幼稚園が開園したのは翌1970(昭和45)年4月だった。上鴻之舞小学校が閉じてから、わずか2年後のことだ。

山の中の小学校から、紋別市街に新しくできる幼稚園へ。学校としての役目を終えた校舎の木材が、別の場所で子どもたちのために使われた。跡地に建物が残っていなくても、その材料には次の行き先があったのだ。

この話は、紋別大谷学園の公式沿革と、『月刊クォリティ』の記事を合わせてたどることができる。

廃校後の跡地|汚泥処分場を示す看板

もう一枚、現地で目を引いたものがある。落ち葉と草に半ば埋もれていた、白い大きな看板だ。

落ち葉の中に倒れていた産業廃棄物処分場と汚泥に関する古い看板
落ち葉に埋もれた看板には「産業廃棄物」「汚泥」の文字が残っていた。

文字の間には「産業廃棄物」「汚泥」と読める部分が残り、学校の記念碑とはまるで異なる用途を示していた。

2022年にここを訪れた人の現地記録には、跡地が平成2(1990)年から汚泥の置き場として使われていたとみられる旨の記述がある。石碑の奥に残る土盛りや人工物を見ると、学校が閉じた後、この土地が大きく姿を変えたことも想像できる。

約38年間、小学生が通った場所。その後、校舎の木材は街へ運ばれ、土地は別の用途に使われた。今の風景には、この二つの歴史が重なっている。

林の中のコンクリートがどちらの時代に造られたものなのか、さらに資料を調べる楽しみも残った。

上鴻之舞小学校跡を訪ねて

北海道紋別市の上鴻之舞小学校跡を撮影した現地写真
上鴻之舞小学校跡の現地記録。

道路から見えるのは一基の記念碑だけ。しかし、少し奥へ進むと広い平地があり、林の中にはコンクリートが残り、草の下からは昔の土地利用を伝える看板が現れた。

1930年に開校した学校は1968年に閉じ、その5年後に鴻之舞鉱山も閉山した。学校そのものは残らなかったが、校舎の木材が別の幼稚園に使われたことを知ると、山の中の学校と紋別市街の歴史が一本につながる。

かつての校庭と思われる平地と、正体の気になる林の中の基礎。上鴻之舞には、石碑の年月だけでは語りきれない歴史が残っていた。

上鴻之舞小学校跡の場所・北海道探訪マップ

北海道紋別市上鴻之舞。Googleマップで上鴻之舞小学校跡を探す。下のマイマップには、北海道各地で訪ねた場所を記録している。

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