北海道美唄市我路に残る旧沼東小学校(我路円形校舎)。この記事は2022年12月に撮影した校舎内部の写真記録だ。中心の螺旋階段、円を描く廊下、そして水没した1階。冬の光と氷がつくる景色を、学校があった町の記憶とともに残しておきたい。
沼東小学校は1906(明治39)年に開校。炭鉱町の発展とともに児童が増え、1959年と1960年に円形校舎2棟が完成した。しかし三菱美唄炭鉱の閉山後、1974(昭和49)年3月に閉校した。現地に残るのは1960年築のB棟だ。学校の歴史と我路の冬景色は、別の記事で紹介している。
ここからは、私が2022年12月に校舎内で撮影した写真を紹介する。冬の静かな景色の一方で、足元には水がたまり、壁や天井にも傷みが見られた。写真はあくまで当時の姿で、今も同じ状態とは限らない。美しさとともに、その危うさも伝えておきたい。
円形校舎内部――螺旋階段と扇形の教室
校舎の中心には螺旋階段があり、その周りを丸い廊下が巡り、外側に教室が並ぶ。実際に見ると、普段見慣れた学校とはまるで違う構造だった。廊下を歩くと、壁も窓の並びも少しずつ向きを変えていく。
残っているB棟には、どんな教室があったのか
この学校には、かつて円形校舎が2棟あった。1959(昭和34)年完成のA棟には、各階6室、合計18の普通教室が設けられた。一方、翌1960年に完成したB棟には普通教室12室のほか、図工室・音楽室・図書室・理科室・放送室も置かれていた。今も残る円形校舎は、そのB棟だ。
建て替え前の1954(昭和29)年、沼東小学校には1,821人の児童がいたが、学級数は25のまま。教室は窮屈で、古い木造校舎では冬の寒さも厳しかった。増え続ける子どもたちを迎えるため、この新しい校舎が必要だったのだ。1961年には我路小学校との統合もあり、児童1,635人に対して32学級が編成された。
こうした数字を知ってから写真を見ると、現在の静かな廊下にも、たくさんの子どもたちが行き交っていた頃の姿を思い浮かべたくなる。建設年や教室の内訳、当時の児童数は美唄市行政資料室の調査資料による。
水没した1階――冬の写真記録
2022年12月の撮影時、1階には水がたまり、表面に薄い氷が張っていた。歩ける状態ではなく、静かな景色と同時に足元の危険も感じた。

雪が積もると、段差や水際の境目さえ分かりにくくなる。冬なら安全というわけではない。

沼東小学校の1階はなぜ水没したのか
沼東小学校の卒業生でもある漫画家・浅利義遠さんの話によると、閉校後、校舎の周囲に石炭のズリ(採掘や選炭で出る不要な岩石)が積まれ、周辺より低い位置にある1階へ水が流れ込むようになったという。
かつて石炭で栄えた我路。その歴史が、今の校舎の姿にも影響を与えているのかもしれない。
実は、昔の校庭には川が流れていた
学校と水の関係を調べていて、意外な記録を見つけた。円形校舎が建つよりずっと前、1919(大正8)年の木造校舎の増築では、落合沢川を挟んだ向こう側に10教室を増やし、川をまたぐ2本の渡り廊下で既存校舎とつないでいたという。
美唄市が紹介する閉校記念誌には、廊下の下を清流が流れていたという卒業生の思い出や、校庭を流れる川が増水して校舎が泥に埋まったという記録も残っている。東西を山に挟まれた谷間の学校には、昔から水と隣り合わせの暮らしがあったのだ。
それが今の1階の水没と同じ理由というわけではない。それでも、かつて校舎の下を川が流れていたと知ると、冬の水面を写した写真の見え方が少し変わってくる。
下の動画は、水が引いていた時期に撮影した記録。普段は水面の下に隠れている1階の様子が映っている。
冬には凍ることもあるが、薄氷は危険
冬には水面が凍り、一面が白くなることもある。ただし、見た目だけで氷の厚さは分からない。撮影した日も薄氷で、とても歩ける状態ではなかった。


徐々に朽ちていく校舎

初めて来た時、
この棚にエ○本が置かれてたのが
強く記憶に残っている。


普通の校舎なら教室は四角く、廊下はまっすぐ伸びている。でも、この校舎は廊下まで円を描いている。ここを大勢の児童が行き交っていたと思うと、今の静けさが少し不思議に感じられる。
円形校舎が注目された昭和30年代
この独特の形は、単なる奇抜なデザインではなかった。昭和20年代後半から30年代にかけて、全国の学校で教室不足が問題となる中、円形校舎は限られた敷地に多くの教室を設けられるとして注目された。
当時の報道では、扇形の教室は光が入りやすく、風通しや黒板の見やすさにも利点があると紹介されていた。真ん中に階段、周囲に廊下、その外側に扇形の教室。今では珍しく見える造りにも、当時なりの合理性があったわけだ。
実際の使用感は教室や季節によって違っただろう。それでも、円い廊下や窓から差し込む光を眺めていると、設計した人が思い描いた新しい学校の姿に、少し触れられる気がする。


夏にはここから差し込む太陽の光が、また違った景色を見せてくれる。その光景は幻想的だけれど、建物の傷みが進んでいることも忘れてはいけない。

下の写真には、円形校舎が2棟並んでいたころの姿が写っている。


当時は2棟の円形校舎が渡り廊下でつながっていた。その隣の四角い建物は、低学年用の校舎と玄関だったという。さらに隣には体育館があり、その名残を今も写真からたどることができる。
閉校後、低学年用の校舎などは取り壊されたようだ。昔の写真と見比べると、今残っている校舎が、かつての学校の一部にすぎないことがよく分かる。

もちろん開く事は無い。仮に開いたら超危険。

ラピュタに登場しそうな、シャッター開閉用の装置。

訪れるたび、人の手で壊されたように見える箇所が増えている。悔しい。

以前は、こんな形で棚が廊下に出ていることはなかった。壁から引き剥がされ、放置されたように見える。許せぬ。悔しい。

※下の階は苔の絨毯が敷かれて(?)いる。

以前は、ここまで天井の板が垂れ下がっていなかった。雨水や雪解け水が入り込めば、傷みはさらに進むのだろう。訪れるたびに、少しずつ変わっていく。

以前はもっと残っていた教室のドアも、2022年12月にはわずかになっていた。誰かが壊したのだろうか。かつての美しさが失われていく。許せん。

太陽の日差しがまぶしかった。

比較的暖かかった2022年12月。それでも、見事な氷柱ができていた。

窓の外には体育館跡が見える。当時は、この棟と体育館の間に低学年用の校舎があったという。

わずかに残った教室のドア。円形校舎という特殊な造りのためだろうか、引き戸ではなく開き戸になっている。

この日は完全に凍っておらず、1階を歩くことはできなかった。
沼東小学校の校歌
『大空に 北斗は かがよい
すいらんの 影深き ところ
恵まれし 自然の 幸に
我がふるさとは 拓けたり』
卒業生の記憶を、学校の歴史として残したい
沼東小学校は1974年3月に閉校した。2022年の撮影時点で48年が経っていたけれど、卒業生にとっては、ここは怖い噂の舞台ではなく、毎日通って友だちと学んだ場所のはずだ。心霊スポットという言葉だけで、この学校が記憶されるのは寂しい。当時の学校や我路の暮らしについて覚えていることがあれば、ぜひ教えてほしい。
「図工室」の話と、実際の設計図
沼東小学校は、心霊話の中で「図工室」が登場することもある。実際、美唄市の建築記録を見ると、残っているB棟に図工室があったことは確かだ。ただ、物がほとんどなくなった今の教室を見て、どこが図工室だったかを写真だけで決めることは難しい。
当時は図工だけでなく、音楽や理科、図書のための部屋もあった。そうした普通の学校生活のことこそ、忘れずに残したいと思う。
学校の沿革や建設当時のことは、美唄市行政資料室が公開している「旧沼東小学校円形校舎の設計図面」(PDF)が詳しい。写真は2022年12月に撮影したもの。
最後に
心霊話に出てくる「図工室の絵」や「赤いランドセルの子」。少なくとも2022年12月に撮影したとき、そうしたものは見かけなかった。私が何度もここに足を運んだのは、何かが出るからではなく、校舎に残る風景と、かつてそこにあった暮らしに引きつけられたからだ。
建物は傷み、周囲には水がたまり、野生動物の危険もある。怖いもの見たさで無理をするのではなく、写真を通して学校が残してきた時間を感じてもらえたらうれしい。
沼東小学校の開校から閉校までの歩みと、雪に包まれた外観は、「沼東小学校の歴史と冬景色」にまとめている。



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