PR

中立牛から人口0人の上立牛へ。学校跡と弥生の廃牧場、丸立峠へ続く道を辿る

ニナをフォローする
サイロと建物が残る弥生の農業・畜産施設跡 【探訪・記録】
道路沿いに残るサイロと農業・畜産施設跡

北海道紋別市の山間部にある、中立牛と上立牛。

紋別というと海や流氷を思い浮かべますが、今回は内陸の道を進みます。今も人が暮らす中立牛から、弥生と呼ばれた地域を通り、無住となった上立牛へ。道沿いには、古い商店や学校跡、森に囲まれた会館、牧場に使われていたと思われる建物が残っていました。

一つ一つは離れているものの、道を辿って見ていくと、この山間に暮らしの場が続いていたことが分かります。現地の写真に、地域の歴史を少し添えて紹介します。

中立牛・上立牛は、かつて上渚滑村の一部だった

中立牛は「なかたつうし」、上立牛は「かみたつうし」と読みます。現在の住所では、それぞれ紋別市上渚滑町中立牛・上渚滑町上立牛です。

この地域は、かつて上渚滑村に属していました。1954(昭和29)年7月1日、紋別町・渚滑村・上渚滑村の1町2村が合併し、紋別市が誕生しています。海沿いの紋別と山間の集落は、こうして同じ市の中に入ったわけです。[1]

上渚滑村が1952(昭和27)年に刊行した『村勢要覧』には、中立牛、弥生、上立牛それぞれの戸数と人口が記されています。[2]

資料に載る地区名戸数人口
中立牛第一37戸224人
中立牛第二53戸287人
弥生31戸203人
上立牛23戸148人

出典:上渚滑村総務係編『村勢要覧』1952年版、本文6頁「部落別戸口」。地区区分は当時の資料によるもので、現在の町字境界と同じ範囲とは限りません。

上立牛の148人だけでなく、中立牛にも、途中の弥生にも多くの人が住んでいました。現在の建物だけを眺めていると分かりにくいですが、道沿いには複数の集落があったのですね。

中立牛の入口で見た、公民館と診療所

中立牛の入口側で見た建物。入口の看板には「上渚滑地区公民館中立牛分館」とある。

まず目に入ったのは、低い屋根の小さな建物。入口の看板を読むと「上渚滑地区公民館中立牛分館」とあります。

建物の前には街灯が立ち、周囲には草や花が伸びていました。看板の「分館」という文字を見ると、山間の集落にも、人が顔を合わせる場所が必要だったのだと思います。家々が離れている地域なら、こうした小さな公民館の役割は、建物の大きさ以上だったのかもしれません。

中立牛診療所として撮影した建物。白い外壁と青い屋根が目に留まる。

続いて、中立牛診療所。白い外壁に青い屋根という、すっきりした外観です。

北海道の医療資料には、中立牛254番地の診療所として掲載されています。厚生労働省の医療情報ネットにも名称が載っていました。学校や商店だけでなく、診療所も置かれていたのですね。[3]

中立牛には今も暮らしが続いています。公民館、診療所、学校、商店。こうして並べると、中立牛は周囲に暮らす人たちが用事を済ませ、人と会う、小さな生活の中心でもあったのではないでしょうか。

学校の向かいに残る、前口商店

中立牛小中学校跡の向かいにある前口商店跡。二階の窓の下に店名が残る。

道を進むと、前口商店の建物がありました。二階の窓の下には、今も店名が残っています。

道路を挟んだ向かい側は、中立牛小中学校の跡地。学校の目の前という立地を考えると、通っていた人には見慣れた建物だったのではないでしょうか。

学校と商店が向かい合うこの一角は、集落の中でも人の行き来が多かったのかもしれません。通学する子どもと買い物に来る大人が、同じ道を歩いていたのでしょうか。店先で交わす何気ない会話まで想像すると、今は静かな道路にも、暮らしの輪郭が浮かんでくる気がします。

中立牛小中学校跡。「学舎の里」の碑が残る場所

中立牛小中学校跡に残る「学舎の里」の記念碑と東屋。

中立牛小中学校跡には、校舎は残っていません。代わりに目に入るのは、東屋と「学舎の里」の記念碑です。

学校を訪ねた先行記事によると、中立牛中学校は1981(昭和56)年に上渚滑中学校へ、中立牛小学校は1996(平成8)年に上渚滑小学校へ統合され、閉校しています。小学校と中学校では、閉校した年が違います。[4]

小学校が閉校したのは平成に入ってから。山奥の古い学校跡という印象だけで見ると、もっと遠い昔のようにも思えますが、ここには1990年代まで子どもたちが通っていたのですね。

草に囲まれた碑の前に立つと、学校の建物よりも、その場所に残された名前が頼りになります。何も書かれていなければ、ここが学校だったとは気づかなかったかもしれません。

学校跡の奥に残るコンクリート。工場の名残だろうか

中立牛小中学校跡から奥へ入った場所で見たコンクリート状の遺構。木々の間に壁が残っている。

学校跡からさらに奥へ入ると、木々の間にコンクリート状の壁が見えました。草木が覆い、離れた場所からは全体の形をつかみにくい状態です。

ここは、もともと何をしていた場所だったのでしょう。学校の近くではありますが、残ったコンクリートを見ていると、校舎とは別の、仕事に使う設備だった可能性も気になります。

地域の来歴を調べると、かつての上渚滑村には木材関係の事業所のほか、澱粉工場などの農産事業所があったことが分かりました。『日本歴史地名大系』には、1937(昭和12)年に木材事業10社、上渚滑澱粉工場など農産事業5社とあります。上渚滑一帯は、農林産物を加工する仕事の場でもあったのですね。[13]

澱粉工場では、すりつぶした芋から澱粉を分けるために水を使い、沈殿槽などの設備が必要になります。[15]もしかしたら、この遺構もそうした加工設備の一部だったのかもしれません。写真に残る壁が槽を囲っていたものなのか、建物の壁なのかでも、見方は変わりそうです。もし農産物の加工に使われた設備なら、学校の近くには、子どもたちの通学路と大人たちの仕事場が並んでいたことになります。古い地図に工場や作業場の名前がないか、さらに確かめてみたくなる場所でした。

弥生会館。森の中に残った集落の名前

正面に「弥生会館」の文字が残る建物。内部には崩れた木材が見える。

中立牛からさらに進むと、木々に囲まれた小さな建物がありました。正面には「弥生会館」の文字が残っています。

開口部からは崩れた木材が見え、屋根の内側も傷んでいます。周りの木が建物に迫っていて、かつて人が出入りしていた入口にも、今は木々が迫っています。

しかし、先ほどの『村勢要覧』では、弥生に31戸203人。小さな会館の名前は、この道の途中に「弥生」という地域があったことを今も伝えています。

弥生神社跡を示す、古い看板

木々の間に残る「弥生神社跡」の看板。

弥生神社の跡には、木製の看板が立っていました。文字は「弥生神社跡」。木々に囲まれた今の姿からは、ここが人の集まる場所だったことを、なかなか想像できません。

『村勢要覧』に載る弥生の人口は203人。会館と神社の名前が残っていることからも、ここには住宅だけでなく、集落の人たちが一緒に過ごす場所が設けられていたことがうかがえます。

会館が日々の相談や集まりの場だったとすれば、神社は節目に集まる場所だったのでしょうか。203人が暮らした弥生で、どんな祭りや行事があったのだろう。普段は会館で顔を合わせ、祭りや年の節目には神社へ集まる。そんなふうに、家々に暮らす人たちを結ぶ場所が、この道沿いにあったのかもしれません。

弥生周辺で見た、牧場跡と思われる施設

牧場跡と思われる施設。背の高いサイロと思われる建物と、周囲に残る建物。

弥生周辺では、牧場跡と思われる一帯も見かけました。背の高いサイロと思われる建物が立ち、その周りには屋根の残った建物があります。建物の間には草が伸び、舗装された地面には水たまりができていました。

サイロと思われる建物の周囲には、低い建物や舗装された敷地も残っています。家畜を飼う場所、餌を蓄える場所、車両が出入りする場所。それぞれの役割を持つ建物が一まとまりになっていたのだとしたら、この一帯で、飼料を運び、家畜の世話をする仕事が続いていたのかもしれません。

一方、上立牛地域の産業については、地名辞典に手がかりがありました。『角川日本地名大辞典』の「上渚滑町上立牛」の項目では、明治40年代から林業地域として開け、昭和30年頃から酪農地域として発展したとされています。[5]

森の仕事を中心に開けた土地で、やがて牛を飼い、牧草を育てる暮らしが広がっていった。そう考えると、道沿いに学校や会館だけでなく、こうした大きな設備が残ることにもつながりが見えてきます。森の仕事だけをしていた集落と考えるより、酪農も営まれていた土地と考える方が、会館の先に残るサイロや建物の姿を理解しやすくなります。

さらに奥で見つけた、二基のサイロ

さらに奥で撮影した、サイロと思われる二基の円筒形構造物。

さらに奥へ進むと、木々の隙間に二基の円筒形の構造物が見えました。サイロと思われるもので、先ほどの施設とはまた別の景色です。

片方は明るい灰色、もう片方は赤みのある色。周囲には草木が茂っていますが、この二基は立ったまま残っています。周りの植生が濃く、遠目には見落としてしまいそうでした。

サイロは、牧草などを空気に触れにくい状態で発酵させ、飼料として蓄える設備です。北海道大学の解説でも、サイレージは冬の家畜の餌になると説明されています。[14]この二基にも、夏に刈り取った牧草などを蓄え、冬の飼育に備える役目があったのかもしれません。

そう考えると、周辺には飼料を育てる畑や牧草地があり、刈り取りや運搬の仕事も行われていたのではないでしょうか。家畜の世話は、雪に閉ざされる冬にも続きます。今は静かなサイロの周りも、当時は季節ごとの農作業や飼料の運搬で、人や車が行き来していたのかもしれません。木造の建物より頑丈な塔が残りやすかったのだとすれば、今見える風景は、かつての牧場のほんの一部分なのかもしれません。

馬頭観世音の碑。馬とともにあった暮らしを考える

木々に囲まれた石碑。正面には「馬頭観世音」の文字が読める。

道沿いの探索では、石積みの台座に載った碑も撮影しました。正面に刻まれているのは「馬頭観世音」の文字です。

馬頭観音は、馬の供養や安全を祈る信仰と結びついています。北広島市教育委員会の解説でも、馬が人や荷物を運び、農作業を担っていた時代に、感謝を込めて石碑を立て、供養したことが説明されています。[6]

林業や農業が営まれ、駅逓所もあったこの地域では、馬は人の暮らしを支える大切な働き手だったのでしょう。牛の餌を蓄えるサイロと、馬を思って立てられた碑。役割も時代も違うかもしれませんが、どちらも、この土地で家畜とともに暮らし、働いてきた人たちの存在を伝えているように思います。

上立牛小学校跡と神社跡。無住化からおよそ60年

上立牛小学校跡として記録した、古い木製の案内板。

上立牛には、かつて小学校がありました。現在は校舎がなく、学校跡を示す案内板が残っています。

廃村・廃校を訪ねるHEYANEKOさんの2019年の記録では、上立牛小学校は大正6年開校、昭和39年閉校。別の訪問記事でも、1964(昭和39)年に中立牛小学校へ統合されたとされています。[7][8]

奥の上立牛小学校が先に閉じ、その後も中立牛小学校は平成8年まで続いた。同じ道沿いの学校でも、その歩みは異なります。

同じHEYANEKOさんの記事には、離村の時期について短くこう書かれています。

集落の離村は昭和42年頃。
引用:HEYANEKOの棲み家「北海道紋別市 上立牛」(2019年5月25日)[7]

昭和42年は1967年。2026年から数えると約59年なので、「無住化からおよそ60年」という時間になります。学校の閉校から数年後には、集落そのものも無住になっていったようです。

人口については、2020年の国勢調査をもとにしたCODHのデータでも、上渚滑町上立牛は人口0人・世帯数0と確認できます。昭和27年の23戸148人という記録と、現在の景色の間には大きな隔たりがあります。[9]

また、上立牛小学校跡の道の対面には神社跡があり、五角柱の地神碑が残ると先行の訪問記録にあります。今回の動画でも辿った場所ですが、この記事に載せた馬頭観世音の碑とは別のものです。[7]

上立牛は、人の往来を支える駅逓所のある地域だった

無住の集落という現在の姿からは想像しにくいですが、上立牛には駅逓所もありました。

駅逓所は、旅人の宿泊や馬の継ぎ立てなどを担った施設です。現在の鉄道駅とは役割が違い、道路を移動する人や荷物を支えました。

山田正也氏の資料「渚滑と中央道路に残る 最奥の駅逓」に収録された水野林次郎氏の話では、上立牛三十六線で駅逓の仕事を始めた経緯が紹介されています。立牛十八線にあった駅逓だけでは客の増加に対応しきれず、上立牛にも必要となったという内容です。開設年については、資料中に昭和6年開設との訂正注記があります。[10]

同資料は、上立牛駅逓所を1947(昭和22)年3月の制度廃止まで続いた最後期の駅逓所の一つとして挙げています。学校だけでなく、旅の途中で人や馬が立ち寄る場所もあったのですね。[10]

道道306号の先、丸立峠方面のゲートへ

今回辿ったのは、道道306号「丸瀬布上渚滑線」。中立牛から上立牛を通り、さらに丸立峠の方向へ続く道です。

撮影時は、奥のゲートが閉じていました。ここで引き返すことになりますが、道路そのものは峠の向こうの丸瀬布へつながる路線です。北海道の道路資料にも、上立牛の「丸立峠下ゲート」と丸瀬布側を結ぶ区間が載っています。[11]

通行規制情報では、丸立峠を含む区間について、落石のおそれによる通行止めが案内されています。通行状況は変わることがあるので、出かける際には道路管理者の最新情報を確認してください。[12]

行き止まりの先に何もなかったわけではありません。上立牛には学校も、駅逓所もあり、この道は別の町へ向かう道でもありました。途中で見た学校や商店も、この道を通って暮らし、働いていた人たちのためにあったのだと考えると、山間に集落が続いていた理由が少し分かる気がします。

今も暮らす中立牛と、森に囲まれた上立牛

中立牛では、公民館、診療所、前口商店、学校跡を見ました。その先では、弥生会館や神社跡の看板、牧場跡と思われる建物、サイロ、馬頭観世音の碑。そして上立牛の学校跡と、丸立峠方面へ続く道。

学校や商店は暮らしを支え、会館や神社には人が集まり、牧場やサイロには日々の仕事があった。今は別々に残っているものも、当時は一つの暮らしの中でつながっていたのだと思います。

森の奥のコンクリートも、ただの謎の壁ではなく、この土地で誰かが働いていた名残かもしれません。地域の歴史を知るほど、静かな道の向こうに、かつての人の動きが見えてくるようでした。

もし中立牛や弥生、上立牛に暮らしていた方、学校に通っていた方、前口商店や牧場のことをご存じの方がいらしたら、当時の様子を教えていただけるとうれしいです。あの会館で何をしていたのか、商店には何が並んでいたのか。写真に残した建物の名前だけでなく、そこで過ごした人たちの話も残せたらと思います。

中立牛から上立牛へ。動画でも辿る

今回歩いた道や、写真の前後に広がる景色は、こちらの動画にも収めています。

YouTubeで動画を見る

訪ねた場所をマイマップで見る

ニナ暇人マップを開く

参考資料・引用元

  1. 紋別市「市勢の概要」
    1954年の合併。
  2. 上渚滑村総務係編『村勢要覧』1952年版(北海道立図書館所蔵)
    本文6頁「部落別戸口」の原本画像を確認。表の合計は5頁に載る昭和26年の人口・戸数と一致するが、この部落別表自体には基準日の明記がないため、本文では1952年刊行資料に載る数字として扱う。
  3. 北海道オホーツク総合振興局・遠紋圏域医療資料「無床診療所名簿」
    2016年1月時点の診療所情報。現況の営業証明には用いていない。医療情報ネットも名称確認に参照。
  4. 風月を友とする「紋別市立中立牛小中学校跡を訪ねてみた 2022.9.17」
    小中学校それぞれの閉校年。
  5. 角川日本地名大辞典「上渚滑町上立牛」(JLogos掲載)
    林業・酪農地域としての来歴。
  6. 北広島市教育委員会「馬頭観世音大菩薩」
    馬頭観音信仰の一般的な背景。この地域の碑の由緒ではない。
  7. HEYANEKOの棲み家「北海道紋別市 上立牛」
    上立牛小学校の開閉校、昭和42年頃の離村、学校と神社跡の位置関係。離村の一文のみ直接引用。
  8. 風月を友とする「紋別市立上立牛小学校跡を訪ねてみた 2022.9.18」
    中立牛小学校への統合。
  9. CODH「国勢調査町丁・字等別境界データセット」上渚滑町上立牛
    『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)「令和2年国勢調査町丁・字等別境界データ」(e-Stat)を加工 doi:10.20676/00000450/CC BY 4.0。2020年の人口・世帯数。
  10. 山田正也「渚滑と中央道路に残る 最奥の駅逓」所収「紋別周辺の土木遺産」
    本文13頁の水野林次郎氏の話と訂正注記、14頁の制度廃止時の駅逓所。
  11. 北海道オホーツク総合振興局網走建設管理部「異常気象時の事前通行規制」
    丸立峠下ゲートと丸瀬布側の区間。常時通行止めの根拠とは区別。
  12. 北海道地区道路情報「災害等による通行止」
    丸瀬布上渚滑線の規制掲載。
  13. 日本歴史地名大系「上渚滑村」(コトバンク)
    1937年の木材事業10社、上渚滑澱粉工場など農産事業5社。遺構の用途の考察には地域全体の産業背景として参照。
  14. 北海道大学総合博物館「家畜飼育から見た札幌農学校第2農場」
    サイロとサイレージ、冬季の家畜飼料。
  15. 北海道文化資源データベース「橋本澱粉工場」
    斜里町の工場にある粉砕機・沈殿槽・乾燥機。澱粉加工設備の例として参照。中立牛の施設を示す資料ではない。

本文の写真はニナ撮影。地域の歴史については上記資料を参照しました。参考確認日:2026年10月10日。

コメント

タイトルとURLをコピーしました