羽幌町 築別炭鉱(地区)羽幌炭砿鉄道病院跡地を巡る

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築別炭砿の羽幌炭砿鉄道病院は、昭和19(1944)年12月に炭鉱地区の医療センターとして開業。

羽幌郷土資料館より。

それまでも地域に病院はあったが、地域には一万人以上が暮らしており、高待遇と引き換えに従事する炭鉱夫は常にケガや病気など危険と隣り合わせ。

炭鉱の発展と共に町も周辺人口が増え始め、既設の施設、ベット数は常に満床だったといわれてきます。そこにきて増築されたのが、この羽幌炭砿鉄道病院でした。今では一部しか残っていませんが、昔はかなり大きい建物だったようです。

病院跡の原型はほとんど残っていない。

昭和31(1956)年に増築。当時の建坪は1,458.6㎡だったようです。

医師4名、レントゲン技師1名、看護婦、事務員合わせて総勢38名の体制。診療科目は内科、外科、婦人科、耳鼻科、レントゲン科。病室14部屋、ベッド数50床。

この看板のお陰で病院だと認識できる。

準備室、事務室炊事室、その他もろもろ…完全スチーム暖房などを備えており、地域の総合病院ともいえる病院でした。

病院の入口。

その後も昭和43(1968)年にリハビリテーション用の新病棟を増築されたのです。

炭鉱夫は骨折などの外科治療が多いため、待望の施設。怪我の治療、その後のリハビリにより怪我人治療が早く行われれば、その後の石炭の増産にも期待がもたれていましたが…。

水没している部分も。

エネルギー政策の転換などにより炭鉱は閉山。期待されて増築を重ねた地域の総合病院となった羽幌炭鉱鉄道病院は1971年3月に閉院となってしまいます。

鉄筋が剥き出し。

炭鉱閉山後は急速に街から人は離れていき、閉山後僅か1年程でそこに暮らしていた1万人程の人々が全て離れて行ったのです。

内部の様子。床が抜け落ちている。

わずか1年で1万人の人々が荷物をまとめ離れていく光景はおそらく相当に壮絶だったのでしょうね。

炭鉱の歴史は陰ばかり?

炭鉱の歴史は陰(負)しかないのか?というと自分はそう思っていません。炭鉱の歴史にも当然というべきか『光も陰も』両面あると思います。現状を見ると炭鉱で繁栄した町のその後は、現在進行形で衰退していっていますし明るい要素は少なく見えるかもしれません。

炭鉱アパート群は最先端の設備が整っていた。

更に炭鉱労働の厳しさから起こった過去の痛ましい事故や事件などから新聞やマスメディアには昔から続いており今もなお、陰の部分を取り上げられる事が多く、どこか日本人は自虐史観に染まっている人が多い気がします。事実、一般人が話炭鉱の話題は、今でもこの点が多いですよね。

一方で炭鉱夫は激しい労働と引き換えに当時では最先端の暮らしをしている人も多かったのが一つの事実。

この橋は今はもう無い。

私のYouTubeのチャンネルへのコメントでも『あの時代は良かった。楽しかった』『今を見られてよかった』『今でも昔の楽しい記憶が残っている』など明るい印象で語ってくださる方が多くいます。(YouTubeもやってますのでチャンネル登録よろしくです。)


それら歴史と個人の思い出が詰まっている場所を心霊スポットと扱うサイト(動画)も多いと思いますが、それは違うかなと思っていたりします。

まぁ、心霊スポットとか幽霊系ってPV稼ぎやすいから、やっちゃいがちというか気持ちはわからん訳ではないですがね。自分はそういうのは遠慮してます。だって、上にも書いたけど当時の思い出を楽しくコメントしてくださる方に失礼ですからね。

自分の生まれ育った場所が心霊スポット扱いされていたら、そんなコメント残してくださらないでしょうし。

ちょっと最後は話がとっ散らかってしまいましたが、羽幌町築別地区に存在した、羽幌炭鉱鉄道病院のお話でした。ではまた。

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