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苫小牧・音羽町の飲み屋街|218店が集まった「第二親不孝通り」の歴史と現在

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苫小牧市音羽町の飲み屋街。みゅうじっく じゅんとスワンビルが並ぶ建物の外観 道央
音羽町に残る飲食店街の建物。「みゅうじっく じゅん」と「スワンビル」が並ぶ。(2026年撮影)

北海道苫小牧市の音羽町。住宅や商店が並ぶ通りを一本入ると、古いスナックや居酒屋の看板が並ぶ小さな飲み屋街がある。2026年に歩いてみると、店の間口が続く路地には、かつてこの一帯が夜の繁華街だったことを思わせる建物が残っていた。

実は1976(昭和51)年、音羽町全体の飲食店は218店。苫小牧市内では錦町に次ぐ第2位だった。裏通りは「第二親不孝通り」とも呼ばれていたという。

いま目にする小さな路地は、どのように生まれ、なぜ変わっていったのだろう。『苫小牧市史』や地名辞典、市の商店街記録を手掛かりに、夜の街だけではない音羽町の歴史をたどる。

2026年の現地撮影をもとに作成。各店舗の営業状況は取材時点の保証ではない。 X:ニナ北海道探訪

苫小牧・音羽町の飲み屋街はなぜ生まれたのか

戦前は原野だった? 音羽町という町名の始まり

『角川日本地名大辞典』によれば、現在の音羽町周辺はかつて「オテーネ」と呼ばれ、戦前には線路沿いに少数の家屋があるほかは原野や畑地が多かった。音羽町という町名が成立したのは1964(昭和39)年。旧緑町・字中野の一部から生まれ、1973(昭和48)年から1・2丁目が置かれた。

町名は東京都文京区の音羽町にちなんだものとされる。北海道の工業都市の町名に、東京の地名が由来として記録されているのは意外だった。

なぜ駅の北側に歓楽街が形成されたのか

戦後、港湾整備と工業化が進む苫小牧では住宅地や市街地が拡大した。線路の北側、いわゆる「鉄北地区」でも区画整理が進み、商店や住宅が増えていく。『苫小牧市史 追補編』には、緑町二条通りに商店街が、音羽町の中通りには飲食店街が形成されたことが記されている。

ここで面白いのは、音羽町には表通りの買い物の場と、裏通りの飲食の場という二つの顔があったことだ。1963年に苫小牧港へ最初の船が入り、工場や住宅地が広がっていった時代。仕事帰りに一杯飲む人も、近所で食事をする人も増えていったのだろう。新しい市街地のすぐ裏に生まれた飲み屋街は、工業都市として成長する苫小牧の日常を受け止める場所でもあった。

現在の昭和通り商店会については、苫小牧市の商店街案内も参考になる。

「第二親不孝通り」とはどこの道だったのか

駅南側の錦町から大町にかけては「親不孝通り」の通称が知られていた。これに対し、駅の北側に発展した音羽町の裏通りは「第二親不孝通り」と呼ばれた。『苫小牧市史 追補編』と『角川日本地名大辞典』の双方に記録がある。

「第二」と付けた呼び名には、駅南側の親不孝通りに対する、鉄北のもう一つの歓楽街という自負が感じられる。仕事を終えた人が路地へ曲がり、ひいきの店の暖簾をくぐる。そんな夜の往来が積み重なり、誰かが口にした通称が町に根付いたのかもしれない。地図に載らない名前が市史に残っていること自体、当時の音羽町のにぎわいを物語っている。

飲食店218店――音羽町の飲み屋街が栄えた時代

1976年に218店、従業員635人という記録

『苫小牧市史 追補編』710〜711ページに掲載された1976(昭和51)年の統計を見ると、苫小牧の繁華街の広がりが分かる。

地区1976年の飲食店数
錦町251店
音羽町218店
大町158店
出典:『苫小牧市史 追補編』710〜711頁。音羽町全体の飲食店統計。

音羽町の飲食店に従事する人は635人、年間売上高は14億3,601万円。当時の名目額である。今日の住宅街を歩いていると、この規模には驚かされる。

218店という数字は音羽町全体の飲食店数であり、路地の酒場だけを数えたものではない。食堂で腹を満たし、居酒屋へ寄り、もう一軒の暖簾をくぐる。現在の短い路地からは想像しにくいほど多くの選択肢が、この町の中にあった。218という数字を見ていると、当時の夜の街を行き交った人々の姿まで思い浮かんでくる。

最盛期はいつ? 数字の読み方には注意が必要

1968年の商店・飲食店計120店、1970年の169店という記録も残るが、これらは飲食店単独の数字ではない。また、1982年にはバー・飲み屋など152店の記録があるものの、1976年の218店とは業種分類が異なる。

そのため「218店から152店に激減した」といった単純な比較はできない。1976年が過去最多だったと示す連続統計も確認できていないので、ここでは「記録に残る1976年の規模」として紹介する。

飲み屋街の変化はコロナ以前から始まっていた

では、その後の音羽町はどう変わっていったのか。2001(平成13)年刊行の『苫小牧市史 追補編』は、バブル崩壊後の経済環境、飲酒習慣や飲食店のあり方の変化に触れ、音羽町の歓楽街の衰えを記述している。少なくとも、新型コロナウイルス流行以前から変化が進んでいたことが分かる。

昼間の音羽町は静かだ。スナックのシャッターが下り、灯りの消えた看板が並ぶ。けれども夜に開く店にとって、昼はまだ営業前の時間である。一方で、昔の屋号だけを残したように見える建物もある。現役の飲食店と、かつての歓楽街を伝える建物。その両方が同じ路地に並んでいるところが、音羽町の面白さだ。

苫小牧・音羽町の飲み屋街と、その周辺に残る暮らしの歴史

音羽ショッパーズ――住宅の1階にあった公設市場

飲み屋街の歴史を調べると、夜の店だけではない音羽町の姿が見つかる。1971(昭和46)年2月14日、音羽町1丁目18番11号に「音羽町市設小売市場」、通称「音羽ショッパーズ」が開設された。4階建ての市営住宅の1階に市場が入り、1979年には13店舗が営業していたという。

人々が暮らす住宅の階下で食料品を買える施設だった。裏通りに飲食店が密集していたのと同じ頃、表通りのそばには毎日の食卓を支える市場もあったのである。

その後、周辺の大型商業施設との競争などにより市場の経営環境は厳しくなる。1990年には4店舗が撤退し、1991年には協同組合が解散した。日々の買い物でにぎわった場所は、市場としての役割を少しずつ終えていった。それでも、旧ショッパーズと地域の人々とのつながりが途切れたわけではなかった。

旧市場は壁画とイルミネーションの舞台にもなった

旧音羽ショッパーズの歩みは、市場の組合が解散したところで終わらなかった。2008年、昭和通り商店街振興組合の創立30周年事業として、駒大苫小牧高校美術部の生徒約15人が壁画制作に参加。ハスカップ、ナナカマド、ハナショウブを描いた作品は8月8日に完成した。

さらに2009年11月には、商店街の組合員が旧市場に手作業でイルミネーションを設置。2013年にも旧音羽ショッパーズを会場とする装飾イベントが、市の記録に残っている。市場の最盛期が過ぎても、町の人たちはその場所を活用しようとしていた。2008年の壁画制作記録と2009年のイルミネーション記録に当時の様子が掲載されている。

さらに2011(平成23)年度の苫小牧市の商店街実態調査には、「旧音羽ショッパーズのような店の再開!を切望します」という自由回答が残っている。市内の商店から寄せられた一つの声だが、かつての市場がどれほど必要とされていたかを考えさせられる。壁画を描く高校生、冬の飾り付けをする商店街の人々、そして市場の再開を願った人。音羽ショッパーズは、商業施設の盛衰だけでは語れない場所だった。

1964年創業のふとん店と、地域を支えた銭湯

音羽町1丁目には、1964(昭和39)年創業を掲げる「ちばふとん店」がある。奇しくも音羽町という町名が生まれたのと同じ年だ。1974(昭和49)年創業と案内されている「味処てっ平」も、飲食店街がにぎわった時代と重なる。

また、音羽町1丁目8番11号の「鶴の湯」は、地域の暮らしを支えてきた銭湯だ。2018年の北海道胆振東部地震の後、厚真町の被災者に入浴の機会を提供したことが店の公式サイトで伝えられている。夜の歓楽街だけに注目すると見落としてしまう、生活の場としての音羽町がある。

テレクラの建物に見えた、別の時代の音羽町

現地では、昔のテレクラを思わせる看板や建物も目に入った。残念ながら今回その外観は撮影できなかったが、地図サービスや電話帳には、音羽町1丁目8番2号に「テレクラジャングル」の掲載が残っている。

テレクラという電話を介した娯楽サービスは、昭和後期から平成にかけて知られた。音羽町の飲食店街が形成された昭和40年代とは少し時代がずれる。この町には、歓楽街の発展期だけでなく、その後に広まった娯楽文化の痕跡も重なっている。

ただし、この店舗の開業年や現在の営業状況は確認できていない。地図に店名が載っていることをもって「現在も営業中」とは書けない。所在地の確認にはYahoo!マップの掲載情報を参照した。

音羽町の場所を地図で確認

苫小牧駅の北東側、音羽町1丁目・2丁目周辺が今回の舞台だ。以下は町の位置を示す地図で、かつての「第二親不孝通り」の正確な区間を示したものではない。

より詳しい地図はGoogleマップで音羽町を見る。

現地の街並みを動画で見る

2026年に撮影した音羽町の街並みを、動画でも記録した。路地の広さや建物同士の距離、看板の並び方は、文章や写真とはまた違う形で確かめられる。この記事だけでも歴史を追えるようにまとめたが、実際の町の姿もあわせて見てもらえたら嬉しい。

苫小牧の音羽町を歩いて思うこと

飲食店218店という数字だけを見ると、かつてのにぎわいと今との落差ばかりに目が向く。しかし、今回調べた音羽町には別の歴史もあった。市営住宅の下に市場ができ、商店街が飾り付けを続け、長く営業する商店や銭湯もあった。

歓楽街と住宅街は、別々の町ではなかった。人々が飲みに出かける場所であると同時に、毎日を暮らす場所でもあったのだろう。だからこそ「かつて栄えた、今は寂しい町」という一言で片付けたくない。

第二親不孝通りと呼ばれた路地の範囲や、そこにあった店の名前を知る人がいたら、ぜひ当時の話を聞かせてもらいたい。かつて町を行き交った人たちの記憶と、今残る風景をつなぎながら記録を続けたいと思う。

関連記事として、札幌・月寒しょんべん横丁(洋次通り)と余市町の駅前から飲み屋街を歩いた記録も紹介しておく。北海道の横丁や飲み屋街を歩くと、町ごとに違う成り立ちが見えてくる。

X:ニナ北海道探訪でも北海道の街歩きや古い町の記録を発信している。

主な参考資料

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