北海道芦別市の山あい、旭町油谷。雪に埋もれた林の奥で、分厚いコンクリートの壁が姿を現した。開口部をくぐるように視線を向けると、その先にも壁が続いている。表面からは鉄筋がむき出しになり、かつて何かを支えていた構造が残っていた。
炭鉱の遺構に詳しいスケキヨ氏に案内してもらい、冬の油谷炭鉱跡を訪ねた。ズリ山の近くから少し奥へ歩いてたどり着いた場所である。いま残るコンクリートはわずかでも、そこには選炭場、輸送設備、炭鉱住宅、学校が一体となっていた時代の歴史が重なっている。

油谷炭鉱の開鉱は1947(昭和22)年、閉山は1965(昭和40)年。芦別市の沿革にはそう記されている。しかし、この18年間だけを追っても、油谷という場所の成り立ちは見えてこない。開発の前史、急拡大した石炭生産、輸送方法の変化、そして閉山前から始まっていた町の縮小を一つずつ辿ってみる。
油谷炭鉱の前史――1947年の開鉱以前にも炭鉱があった
油谷炭鉱を「戦後に突然造られた炭鉱」と捉えるのは正確ではない。島西智輝による研究『芦別の炭鉱――ローカル・ヒストリーから見る近現代日本』によれば、その前身は1919(大正8)年に久原鉱業が取得した辺渓炭鉱にさかのぼる。大正末期にはほぼ休山状態となり、日産コンツェルン系の企業を経て、1943(昭和18)年に油谷鉱業が取得。戦時中は炭層調査にとどまり、本格的な再開発は終戦後の1946(昭和21)年に始まった。
芦別市史上の「1947年開鉱」という年は、この長い前史の後に油谷芦別炭鉱が本格的に動き出した節目だと理解できる。北海道の炭鉱町には明治から続く場所もあるが、油谷が大きな町として姿を現したのは戦後の復興期だった。出炭増加が国の重要課題だった時代と、油谷の発展は重なっている。
9つの坑口、1949年度には約16万トン――山の規模を物語る数字
同じ研究によれば、油谷鉱業は露天掘りに加え、9つもの坑口で採炭を進めた。1949(昭和24)年度の石炭生産量は約16万トンに達している。当時は囚人労働も投入されていたという。炭鉱開発の速さだけを見るのではなく、その生産をどのような労働によって支えたのかも記録しておきたい。
三井芦別、三菱芦別、明治上芦別、芦別高根、油谷芦別は「芦別五山」と呼ばれた。油谷は、その一角として戦後の芦別を支える存在になった。1949年度の約16万トンという数字は、森の中に残るいくつかの基礎だけからは想像しづらい設備の規模を示している。
各坑口から掘り出した原炭は、そのまま貨車に積めばよいわけではなかった。石炭以外の岩石や大きさの異なる塊を選り分け、商品となる石炭の品質を整える工程が必要になる。鉱山から選炭場へ、選炭場から積込み場へ――油谷の地形と施設配置も、その流れをつくるために利用されたはずだ。
石炭を運ぶ索道があった――専用鉄道より前の油谷
炭鉱が山中で大量の石炭を生産できても、それを市街地や国鉄線まで送り出せなければ産業として成り立たない。油谷は、輸送方法を短期間のうちに変えている。
1948(昭和23)年5月26日、油谷炭鉱と芦別駅を結ぶ運炭索道が完成した。およそ6kmにわたり、石炭を入れた搬器を空中につり下げて運ぶ仕組みである。斜面や谷を越えて運べる索道は、鉄道が山奥に入る前の輸送手段として重要だった。『新芦別市史 第二巻』を引用した鉄道史の紹介にも、この索道の長さと設置時期が記されている。
ところが、この索道は長く使われなかった。1949(昭和24)年末に三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道の上芦別―辺渓間が開通し、油谷炭鉱方面への約1.3kmの支線も整備された。1950(昭和25)年には三菱の鉄道を使う石炭輸送へ切り替わり、索道は役目を終えた。鉄道の敷設・開通日と索道からの実際の切替時期には、資料によって表記に差があるが、1948年の索道から1950年の鉄道利用へという変化は追うことができる。
索道から鉄道への転換は、単に運搬手段が新しくなったというだけではない。採炭量の増加に対応し、選炭場で整えた石炭を貨車単位で外へ送り出す輸送体制に変わっていったことを意味する。山奥にまで鋼鉄の線路が延びた背景には、急速に膨らんだ油谷の生産量があった。
参考:『新芦別市史』の索道記述を引用した芦別駅の調査記事/歩鉄の達人「三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道」
辺渓から分岐した1.3kmの専用線と、盤の沢の橋梁
三菱の専用鉄道は、国鉄根室本線の上芦別駅を起点として北へ延び、辺渓で油谷炭鉱方面に分かれていた。油谷へ向かう区間は約1.3km。1954(昭和29)年には別方向の辺渓三坑への区間が延長され、山中の運炭網が広がった。
国鉄根室本線 上芦別駅
↓ 三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道
辺渓(分岐地点)
├ 油谷炭鉱方面(約1.3km)
└ 辺渓三坑方面
現在の油谷地区には、線路を失ってもその経路を伝える構造物が残る。北海道空知総合振興局は、1949年に造られた鉄筋コンクリートのアーチ橋『第一盤の沢橋梁』『第三盤の沢橋梁』、辺渓隧道の坑口、第四盤の沢橋梁の橋台などを産業遺産として紹介している。
スケキヨ氏から冬の探索中に鉄道の話を聞いた記憶がある。あの山の石炭は、昭和20年代には空中を渡る索道で、その後は谷に沿う専用鉄道で運び出されていた。写真に見えるのは線路ではなく、雪に閉ざされた山あいの地形だ。しかし、盤の沢川沿いに専用鉄道の橋梁が残り、その上流側に選炭場とズリ山があったという資料を重ねると、なぜこの谷に炭鉱施設が集中していたのかが見えてくる。山側で採掘・選別した石炭を谷筋の輸送路へ送り出すには、斜面と高低差を利用する配置が合理的だった。見えなくなった鉄道は、残された選炭場のコンクリートを理解するための手がかりでもある。
資料:北海道空知総合振興局「上芦別~油谷間の鉄道遺構」/1961年発行の地形図に残る油谷専用線の末端部の紹介
ズリ山の奥に残るコンクリート――何のための構造物だったのか
冬の現地写真で最も印象に残るのが、雪をかぶった大きなコンクリート構造物だ。四角い開口部が連続するもの、上部が厚く張り出したもの、内部の壁が雪に埋まったもの。いずれも普通の住宅の基礎として考えるには頑丈で、産業設備を支持していた躯体を思わせる。

選炭場という場所の役割を踏まえると、これらの形にも理由が見えてくる。石炭の流れを上から下へ落として処理する設備、重量のある機械を据える基台、水を使って石炭と岩石を分ける装置、原炭や精炭を一時的に蓄える槽。選炭場では、それぞれを組み合わせる必要がある。大きなコンクリートは、建物の外壁であると同時に、設備自体の荷重や振動を受け止める役割も果たす。


油谷の選炭場については、盤の沢川左岸に設けられ、ズリ山を背後に抱えた区域にコンクリート基礎が残るとする現地調査が複数ある。『北の細道』の訪問記には、レオ式の水洗選炭機に関係するとみられる槽状の構造物、選炭設備の基礎、鉄筋の露出した壁などが記録されている。
私が撮影した構造物にも、厚い壁、連続する開口部、突き出た鉄筋という特徴がある。とりわけ大きな構造物は、上部が外側に張り出し、下へ向かってすぼまるような形をしている。上方で石炭を受け、下方へ落とす設備や、重量のある装置を据えるための基礎を連想させる造りだ。ズリ山の近くから奥へ進んだという歩行記憶と、盤の沢川左岸の選炭場に基礎が残るという記録を重ねると、選炭場の機械基礎、あるいは原炭・精炭を扱う付帯設備の一部と見るのが有力だ。石炭を選び、不要な岩石を分け、貨車へ送り出す。その作業に必要な設備の重みと落差が、コンクリートの形に残ったのではないだろうか。

鉄筋が外へ現れ、コンクリートの表面は大きく剥離している。かつては機械の震動と大量の石炭を受け止めていたであろう構造物にも、今は雪が積もる。雪の下の全体像は見えないが、内部の空間と露出した骨組みから、平面ではなく立体的に組み上げられた産業設備の痕跡を読み取れる。

坑口だけが炭鉱の痕跡ではない。石炭を掘り、選び、運び、不要な岩石を処理する一連の仕事があって初めて炭鉱は成り立っていた。雪の中のコンクリートは、そのうちの地上で行われていた工程を伝える資料なのである。
遺構の比較資料:「油谷芦別炭鉱と三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道」/「油谷炭鉱跡 探検」(北の細道)
冬の記録映像から読み解く選炭設備の姿
2023年2月の写真に加え、当日撮影した短い動画も残っていた。特に印象的なのは、四本のコンクリート柱で支えられた躯体の内側に、下へ向かってすぼまる赤褐色の鋼製漏斗が収まっている。コンクリートの骨組みと、金属製の容器は別々の部材として明瞭に見える。側面には鉄筋が露出し、下方には物を落とせる開口部がある。別の映像には、細長いコンクリートの床状構造を複数の柱で支える設備も写っている。
前者の形は、石炭などの粒状物を上部で受け、下部の開口から取り出す貯炭槽(ホッパー)の機能に合致する。後者は高い位置に設けられた作業床、あるいは選炭場内で物を移送する設備の基礎を想像させる。石炭を選別する施設では、重力を利用して上段から下段へ原炭や精炭を移し、必要な高さに機械を据える。そのため地上に立つ分厚い柱や漏斗状の躯体が必要だった。
現地調査の記録にも、盤の沢川左岸の選炭場跡には上段の機械基礎や筒状の構造物が残ると記されている。今回は映像の形状と現地記録を照らし合わせ、鋼製の漏斗状部分を石炭などを受けて下方へ排出するホッパー、その周囲のコンクリート柱を支持構造、柱で支えられた長い構造物を選炭工程に関連する施設の一部と考えた。ただし、両者が直接つながった一つのラインだったとまでは、映像だけからは言えない。高低差や位置関係は、現地の配置図と比較して初めて見えてくる部分もある。
別角度から撮影した映像では、漏斗の側面に縦の継ぎ目があり、下方に出口が絞られていることが分かる。柱で支えられた長い構造物の足元には黒い塊が散らばっている。これらは石炭やズリを扱う設備だったという解釈に沿うものだが、塊の材質を映像だけで判定するものではない。選炭設備が高低差を使って石炭を移動させていたという見方を、構造物の形態から検討できる。
約5,000人が暮らした油谷――炭住街、学校、保育園、会館
油谷地区には、かつて約5,000人が暮らしていた。LIFULL HOME’S PRESSの芦別市取材記事(2022年)にも、この人数が紹介されている。単に坑口や選炭場があっただけではなく、炭鉱住宅が並び、働く人の家族を含めた生活の場があった。
炭鉄港デジタル資料館には、1953(昭和28)年に油谷会館の前で開かれたメーデー集会の写真がある。また1954(昭和29)年の『すみれ保育園第4回入園式』も残っている。労働者の集会と子どもたちの入園式。二つの記録を並べるだけで、炭鉱が生産設備だけではない一つの町だったことがよく分かる。
油谷小学校は1948(昭和23)年に旭小学校の分校として、油谷中学校も同年に芦別中学校の分校として始まった。『芦別物語』には学校の校舎や卒業式、校門、体育館の記録が集められている。さらに祭り、油谷会館での催し、住宅地図も残る。石炭を掘る仕事の周囲には、学び、遊び、祝う日常が確かにあった。
写真・地域資料:炭鉄港デジタル資料館「油谷炭鉱」/炭鉄港デジタル資料館「芦別の暮らし」/芦別物語「油谷炭鉱」
1958年の約800人の人員整理――閉山は一日の出来事ではなかった
油谷の歴史に残るもう一つの大きな数字が、1958(昭和33)年の約800人である。島西智輝の研究によれば、油谷芦別炭鉱では同年に約800人の人員整理を実施し、会社更生法の適用を受けた。その後も合理化と人員整理が繰り返され、1965(昭和40)年に閉山した。
出炭量を急増させた1949年から、最初の大規模な人員整理までおよそ9年。油谷の繁栄は、石炭需要が伸びる戦後復興の中でつくられ、国内炭が輸入石油などとの競争にさらされる時代に大きく揺らいだ。
従業員の縮小は炭鉱の損益だけの問題ではない。炭鉱を中心に築かれた住宅、商店、保育園、学校にも変化が及ぶ。閉山後の1968(昭和43)年の住宅地図が残されていること、油谷中学校が1970(昭和45)年、小学校が1971(昭和46)年まで続いたことは、町が閉山と同時に空白になったのではなく、何年かをかけて暮らしの形を変えていったことを物語っている。
一方で、専用鉄道は三菱芦別の閉山に伴って1964(昭和39)年に廃止されている。油谷の閉山に先立ち、周辺の輸送網が失われた。かつて炭鉱の成長を支えた鉄道まで同じ時代に姿を消していったことは、この地域全体が産業転換の渦中にあった証拠でもある。
研究資料:島西智輝『芦別の炭鉱』(早稲田大学)/芦別市の沿革
学校跡から芦別温泉へ――役割を変えて残った場所
しかし、油谷には炭鉱閉山後に新しい役割を得た場所もある。1971(昭和46)年に閉校した油谷小学校の体育館の下から湧出していた鉱泉を利用し、1972(昭和47)年10月、旧校舎を改築した市営『健民センター芦別温泉』が開設された。
1979年には国民宿舎、1987年にはヘルスセンター星遊館、1989年には芦別温泉スターライトホテルが開業した。かつて子どもたちが集まった学校跡が、炭鉱町の終焉後には市民や旅行者を迎える温泉施設へと移り変わった。
炭鉱の施設が温泉施設へそのまま転用されたわけではない。選炭場の遺構は盤の沢川左岸の山中にあり、温泉は学校跡を起点に発展した施設である。両者は別の場所にありながら、油谷という町の二つの時代を示している。
資料:芦別温泉の施設沿革(運営事業者発表、2017年)/芦別市「沿革」
なお閉山年の記載には資料差がある。芦別市の公式沿革では1965(昭和40)年だが、後年の現地調査記録には1965年3月の終掘と1966年の閉山を区別するものもある。本文は自治体の公式年表を基準に1965年とし、終掘・閉山の記録上の違いも残しておく。
1956年の航空写真と1968年の住宅地図から見える町
油谷の景色を理解するうえで、当時の航空写真も欠かせない。炭鉄港デジタル資料館には、操業中の1956(昭和31)年に撮影された油谷芦別地区の航空写真や、選炭場群・ズリ山などの写真が収蔵されている。芦別物語には1968(昭和43)年の住宅地図も掲載されており、炭鉱町の規模と施設の位置関係を読み解く手掛かりになる。
航空写真と住宅地図を重ねてみると、炭鉱施設と住宅地が同じ谷に集まっていたころの配置を追いやすい。1961年発行の地形図に描かれた専用線も合わせれば、雪原の奥にあるコンクリートが、かつてどのような町と輸送設備に囲まれていたのかを考える手がかりになる。
これらの資料は、現在では森や雪の下に隠れた施設配置を確かめる手がかりでもある。選炭場・ズリ山・専用線と現地で撮影した構造物の位置関係を、今後さらに照合していきたい。
古写真:炭鉄港デジタル資料館「油谷炭鉱」 地図:芦別物語「地図と図面」/昔の地形図に見る油谷炭鉱専用線
雪の下に残るのは、炭鉱と町を支えた仕事の跡
油谷炭鉱には、石炭を掘る人がいた。選炭場では掘り出された石炭を仕分け、索道や鉄道は町の外へ運び、炭住街には学校へ通う子どもや家族の日常があった。その町は数年で生まれたのではなく、前史を持つ炭鉱の再開発から大きく成長し、1950年代末から何度も変化を重ねながら閉山の日を迎えた。
冬の森に残されていたのは、炭鉱町のごく一部分でしかない。だが、分厚いコンクリートの形、選炭場の位置、運炭鉄道の経路、古い地図に並ぶ家々をつなぎ合わせてみると、ただの廃墟として眺めるだけでは見えてこなかった油谷の歴史が浮かび上がってくる。
いま芦別温泉へ向かう人の多くは、そこに炭鉱町の学校があったことを知らないかもしれない。山の中のコンクリートと、現在も利用される温泉施設。その両方が、かつて油谷に一つの町が存在したことを伝えている。
※林の奥にある遺構は老朽化が進み、積雪下の穴や落雪・崩落の危険がある。撮影時の記録として紹介するものであり、立入可能な見学場所として案内するものではない。私有地には所有者の許可なく立ち入らないこと。
掲載写真について:現地の写真は2023年2月23日の撮影記録。雪や老朽化で見えない箇所もあるため、個々の構造物の用途は現地記録と資料を照らして推定した。
参考資料
・島西智輝『芦別の炭鉱』(早稲田大学)(開発の前史、1949年度約16万トン、1958年人員整理、閉山後の地域変化)
・芦別市「沿革」(1947年開鉱、1965年閉山、1972年温泉開設)
・炭鉄港デジタル資料館「油谷炭鉱」(1956年航空写真、選炭場、ズリ山、炭住街等)
・炭鉄港デジタル資料館「芦別の暮らし」(1954年すみれ保育園入園式)
・北海道空知総合振興局「上芦別~油谷間の鉄道遺構」(盤の沢の鉄道橋と見学上の注意)
・「芦別駅」の鉄道・索道史(『新芦別市史』からの索道に関する記述)
・「油谷芦別炭鉱と三菱鉱業芦別鉱業所専用鉄道」(選炭場遺構の現地記録)
・北の細道「油谷炭鉱跡 探検」(選炭機、遺構、ズリ山の現地記録)
・芦別物語「油谷炭鉱」(学校・町の写真、1968年住宅地図)
・芦別温泉スターライトホテルの施設沿革(学校跡から温泉施設への転換)
・関連記事:北海道芦別市カナディアンワールド――「廃墟じゃない」と私は言い続けたい(芦別の別の歴史を訪ねた記録)


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