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千代志別──北海道・浜益の限界集落を歩く|橋と家と、静けさに刻まれた暮らしの痕跡

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DCIM101MEDIADJI 0751.JPG 【探訪・記録】
教員住宅跡

はじめに

北海道石狩市浜益区にある「千代志別」
名前さえ知らない人も多いかもしれません。

今回訪れたのは、住民票上は4世帯5名、
私の現地調査では実際の居住は1〜2軒と思われる漁村と林業で賑わった限界集落。

かつての漁村には何が残り、何が失われたのか。その記憶をたどります。

地名の由来──アイヌ語「チセソシペ」

「千代志別」という地名は、
アイヌ語の「チセソシペ(cise-sosi-pet)」に由来すると言われています。
※所説有り

チセは「家」、ソシは「跡」、そしてペツは「川」。
つまり──
“家の跡が点々と残る川”という意味になるそうです。

かつてこの地には、
ニシン漁や林業のために季節的に訪れた人々が、簡素な住まいを建て、しばし暮らしていたといいます。
その痕跡を、アイヌの人々は静かに言葉として刻み、
千代志別という名が私たちに受け継がれていきました。

地名とは、誰かの生活が一瞬でもそこにあった証。
言葉は風景を、そして記憶を、
時を越えて運ぶ舟のようなものです。

この「名」に触れた瞬間、
きっと、私の旅は始まっていたのかもしれません。

小さな集落の“最盛期”

昭和30年代、千代志別には 約20世帯・130人前後の人々が暮らしていました。
主な産業はニシン漁と林業だったようです。
※70軒というのも見ましたが…子供の多い時代に70軒で130人だとすると少なすぎる気がするのですよね…詳細を知る方、データを持っている方教えてくださると助かります。

春には網元のもとでニシン漁が行われ、
夏には山仕事、冬は浜での網修理といったところでしょうか。
子どもたちは千代志別小学校や中学校へ通い、町には毎日、
それぞれが暮らす大切な時間があったのでしょうね。

学校があり、神社があり、店は…無かったというか、
あったという記録は見てないけれど、
そこには通学路があり──
ちゃんと「暮らしの地図」があったのです。

ですが、
トンネルが開通したことによって、
千代志別は陸の孤島ではなくなり、便利になったことで、
外界との行き来が自由になり…。

やがてニシンが獲れなくなり、
山も静まり、行き来がしやすくなった事により皮肉にも若者が町を離れていった。のではないかな?と想像しています。

以前の暮らしは風のように遠ざかり、
静けさだけが少しずつやってきたのです。

現在の人口と生活の痕跡

登録と実際の住民票上:4世帯5名(石狩市資料・2024年時点)

実居住:2世帯?(現地調査による)

玄関先の除雪、煙突の有無、郵便受けの使われ方──
歩いて、見て気づくことがたくさんありました。

たしかに誰もいない家がほとんど。
でも、ごくわずかに、「まだ暮らしが続いている気配」もあったのです。

冬の北海道で、除雪がされているということ。
それは、誰かが『今』もこの地で生きているという確かな証拠です。

歩いて出会った“かつての風景”

雄別荘──漁場建築の変容

雄別荘と呼ばれる建物。何故雄別???

「雄別荘」と書かれた看板が、かろうじて読める家があります。

ギャンブレル型の屋根──
もともとはニシン漁の網元が建てた鰊番屋を改築した建物ではないか?と考えられています。

昭和後期、国道231号線の工事が行われていた時期には、
工事関係者の下宿先として使われていた可能性もあるようです。

かつて宿だった家が、
今では無人となり、名前だけが静かに残っている。

看板に刻まれた「雄別荘」という文字は、

まるでこの場所の名残を語る“独り言”のようでした。

山口家資料館跡──記憶を刻むために建てられ、今は消えたもの

木の城たいせつ創業者の生家跡地がここらしい。

風が通る川沿いの更地。

明らかに不自然な空き地に、
かつて山口家資料館と呼ばれる建物がありました。

これは「木の城たいせつ」の創業者・山口昭氏の生家をもとに作られた私設資料館。
中には、古い農具や家財、生活の記録が展示されていたといいます。

“忘れられる前に、残しておきたい”

そういう意志を持った誰か…山口氏の一族の方なのか、ご本人なのかはわかりませんが、歴史を守っていた場所。

でもその建物は、2021年頃に解体されました。
理由はわかっていません。

今、そこには風だけが吹いています。
でも、確かにここには「記憶を守ろうとした人の手」があった。

痕跡とは、ただの残骸ではない。
想いが込められた“沈黙する言葉”ともいえそうです。

教員住宅──校舎は消え、暮らしの家だけが残った

教員住宅跡

千代志別小学校は1979年に浜益北部小学校へ統合されました。その後、校舎は解体されたようです。
でも学校の建物はもうないのに──なぜか教員住宅だけは残されていました。

玄関の横の窓が開きかけていて、
割れた窓の隙間から、昔の流し台と畳が見えます。

あの日、先生が背広をかけて、
「じゃあまた明日な」と言った、あの時の時間が残っている気がしてしまいますね。

校舎は消えたが、先生たちの思い出だけが立っていた。

小学校の閉校記念碑──石に刻まれた“証言”

風雪にさらされながらも残っていたのが、
千代志別小学校の閉校記念碑。

寄贈したのは、北海道の大手ゼネコン「石山組」。
関係者の誰かが、記録を残すことの大切さを知っていたのでしょうか。どのような経緯でここに寄贈したのかはわかりません。

裏には、最終在籍の教員と生徒の名前。
昭和53年3月、最後の卒業を見届けた、校舎と記憶たちの証。

石は語らない。
けれど、その沈黙には深く熱い声がこもっている──
そう思える記念碑でした。

閉校記念碑…石山組が寄贈したという。

廃神社と宗教施設?──祈りの構造が解けかけた場所

教員住宅から少し進んだ先。
雪に埋もれる1つの鳥居が倒れかけて建っていました。

鳥居は崩れ、鈴の音は当然聞こえない。
でも、そこには「人が祈った場所の空気」が確かにあった。

すぐ近くの小屋には、板が打ち付けられていて中は見えません。

ただ、中を覗いた人にやると、祭壇らしきものがあり、かつて宗教団体の関連施設だったのではないか?とも言われていました。

誰も来なくなった場所にも、
「願い」は残っていた──。

神社が廃れても、願ったことの空気だけは、どこかに漂っている気がしたのです。

神社…廃神社では…ない?

第一千代志別橋──誰のために架けられたのか

この橋には、こう刻まれていました。

「平成十三年六月竣工」

西暦2001年──
千代志別の人口は、すでにほとんど残っていない頃。

かつてニシン漁で栄えたこの場所に、
誰のための橋が架けられたのか?

考察1:防災・林道管理の必要性

山側の道を繋ぐ必要性、防災や河川の維持管理の目的──そうした“行政的合理性”。

考察2:宗教施設・信仰の名残

かつて小さな宗教拠点がこの先にあったという話もあり、関係者の出入りのためかもしれない。

考察3:それでも未来を見ていた人がいた

「この場所は、まだ終わっていない──」
そう願った誰かがいたなら。

予算でも、使命でもなく、
「きっとこの先にも誰かが生きる」と信じて架けたとしたら──

それは、限界集落に架けられた、未来へつながる希望の橋だったのかもしれない…。
なんて言ったらちょっと情緒過ぎるしどうなんだろうね。
実際の理由は正直、私には想像もつかない…。

千代志別 消えた暮らしのその先に

橋を渡った先に、何があるのか。
それを問う前に、こう言いたいのです。

たしかにここには、暮らしがあった。
暮らしは、人の声と湯気と、夕飯の匂いだった。

それがあったからこそ、
いまこの動画も、この文章も、生まれている。

石碑が黙っていても、
屋根の形が傾いていても、
風の音に混じって、記憶はちゃんと残っている。

まとめ

千代志別という、消えかかっている暮らしのその先に残る
〈限界集落の痕跡〉は「まだ」地図からは消えていません。
けれど多くの人々には認識されることもなく、
気づけば、
もう誰もいない場所として記憶・記録されている─そんな状況。

記録に残すということ。
歩いて見るということ。
それは、消えかけた風景に「もう一度意味を見出す」行為なのかもしれませんね。

まぁ自分が勝手にやっていることに、
独りよがりの意味を見出しているのかもしれないけれど…。

でも、
それで、いい。
それが、いい。
なんて自分を慰めながら、
いつかこの場所の人達に届けばいいなと
この記事を書いています。

ではでは。ニナでした。

↓Youtube動画もよければご視聴下さい。

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