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筬島駅の歴史|「物満内」と呼ばれた土地、冬の氷橋と貨車駅舎【宗谷本線】

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夏の青空の下、花壇が並ぶJR宗谷本線筬島駅の貨車転用待合室 【探訪・記録】
筬島駅の待合室。花壇には季節の花が並んでいた(現地撮影)。

北海道音威子府村、宗谷本線の筬島駅(おさしまえき)を訪ねた。青い空の下に建つのは、貨車を改造した小さな待合室。駅前には色とりどりの花が並び、山に囲まれたホームには一本の線路が延びていた。

「筬島」という難しい字を、初めて見てすんなり読める人は多くないと思う。けれど、この駅の面白さは難読駅名だけではない。かつては木造駅舎に駅員がいて、数百人が暮らす集落を支えていた。そして天塩川に橋がなかった時代、住民たちは冬になると川の氷をつなぎ合わせて橋を作っていたという。

今の駅の姿から、昔の筬島と「物満内(ものまない)」の歴史を辿ってみたい。

『おさしま』と書かれた筬島駅の駅名標。音威子府と佐久の間に位置する
筬島駅の駅名標。駅番号はW62。隣駅は音威子府と佐久。

筬島駅を歩く|木造駅舎から貨車の待合室へ

筬島駅は1922年(大正11年)11月8日、音威子府―誉平(現在の天塩中川)間の鉄道開通に合わせて開業した。2026年11月8日で、開業から104年になる。

今のホームは1面1線。駅前には小さな待合室が置かれているが、開業後しばらくは駅員4人が常駐し、木造駅舎と2面2線のホームを備えていた。昭和30年代には、1日平均50〜60人が乗車したという記録もある。木材の貨物輸送を担っていたことも、地域にとって駅が必要だった理由の一つだ。

車掌車を改造した現在の筬島駅待合室。壁面に4つの窓が並ぶ
現在の待合室。もとはヨ3500形車掌車を転用した建物で、2012年に外装が改修されている。

現在の待合室は、国鉄のヨ3500形車掌車を転用した、いわゆる「ダルマ駅」。車輪を外した車両を建物として使うもので、筬島駅では2012年に外装が改修されている。もとの車両らしさは外からは分かりにくくなったが、横に細長い形は独特だ。

駅舎が貨車転用の待合室になった時期は、地域の記録でも「1990年前後」とされ、正確な年は特定されていない。1978年3月に撮影された木造駅舎の写真は、エコミュージアムおさしまセンターの筬島駅資料で見ることができる。

筬島駅の待合室内部。時刻表、運賃表、注意書きなどが掲示されている
待合室内には時刻表や運賃表、利用案内が並ぶ。現在も列車を待つ場所だ。

室内には運賃表や時刻表、各種案内が並んでいた。ホームに出てみると、周囲は木々と草地に囲まれ、現在の線路は一本だけ。かつて交換設備があったことを知ると、この細長い駅の敷地も違った見え方をする。

筬島駅ホームから奥へ延びる一本の線路。周辺は山と緑に囲まれている
山あいへ続く宗谷本線。かつての2面2線から、現在は1面1線になった。

「筬島」より前の地名は、物満内だった

筬島駅の所在地は、今も音威子府村字物満内。読みは「ものまない」だ。地域の資料によると、「筬島」という名称は駅の設置に合わせて付けられたもので、もともとは物満内と呼ばれていた。

『音威子府村史』を紹介するエコミュージアムの解説によれば、駅名を「物満内」とする案もあったが、語呂や事務上の扱いなどを理由に二文字の名称が選ばれたとされる。一方、「筬島」の語源には複数の説がある。アイヌ語の「オサシマンナイ」に結び付ける説や、付近の川の名をもとに考える説などが紹介されており、一つに確定した由来としては扱わない方がよさそうだ。

そして、地名よりも私が興味を引かれたのは、そこに暮らしていた人の多さだった。

地区の年表によると、1908年には岐阜県からの開拓者が移り住み、同年8月までに21戸が入植。1922年には物満内地区の人口340人、1950年には筬島地区が65戸350人、1952年には物満内地区が67戸402人と記録されている。ここでは「筬島地区」と「物満内地区」で集計範囲が異なる可能性があるため、数字をそのまま人口の増減として比較することはできない。

ただ、いま駅前に立って見える風景からは想像しにくいほど、多くの人がこの土地で暮らしていたことは確かだ。学校や集会所があり、木材が駅から運び出され、かつてはパチンコ店まであったという。現在は畑と少数の民家が残る地域だが、土地の使われ方は大きく変わってきた。

冬になると、住民が氷の橋を作っていた

筬島集落と国道40号側の物満内地区の間には、天塩川が流れている。1967年に最初の筬島橋ができるまで、川を渡る交通手段は主に渡船だった。冬は川が凍って船を出せないため、住民たちは氷を切り出し、継ぎ合わせて「氷橋(こおりばし)」を作っていた。

エコミュージアムの資料には、20〜30人の住民が協力して作業に当たったという証言が紹介されている。例年、12月下旬から1月上旬にかけて橋を作り、春の雪解けまで利用したそうだ。天候や川の状態によっては渡れない日もあり、対岸に住む子供たちが年間50日も通学できないことがあったという。

1961年には住民55人の連名で架橋の請願が提出され、1967年に初代の筬島橋が完成した。現在の筬島大橋は1979年完成。今では車で渡れる川も、かつては毎年、住民が力を合わせて越えていたんだね。

氷橋を作る昔の写真は、エコミュージアムおさしまセンター「筬島大橋」で公開されている。現在の橋だけを見ていたら、なかなか気づかない土地の歴史だと思う。

学校は美術館へ。駅は村が維持する現役駅へ

1909年に開設された物満内特別教授所は、のちの筬島小学校となった。学校は移転や改称を重ね、1978年3月に閉校するまで、地域の子供たちの学びの場だった。エコミュージアムの資料では、68年間の卒業生は420人とされている。

しかし校舎は失われなかった。1978年11月、解体を目前に控えていた旧校舎に彫刻家・砂澤ビッキが移り住み、制作の場として使い始めた。その建物は2003年、「エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ3モア」として開館した。学校の歴史も、ビッキの作品とともに受け継がれている。

同館の旧筬島小学校の紹介ページには、運動会や授業、廃校式の写真のほか、校舎の平面図も掲載されている。とりわけ運動会の写真には、駅前に民家が並んでいた頃の様子が写っている。古い航空写真と照らし合わせれば、当時の住宅の配置をもう少し具体的に読み取れるかもしれない。これは今後、調べてみたいことの一つだ。

筬島駅ホームと線路の遠景。両側に背の高い夏草と木々が広がる
反対側へ延びる線路。ホームの向こうには山々が続いている。

駅そのものも、存続のための取り組みが続いている。筬島駅は1984年に無人化され、現在は列車の利用が少ない駅の一つだ。音威子府村は2021年度から筬島駅、咲来駅、天塩川温泉駅の維持管理費を負担し、「みんなの駅」プロジェクトで利用促進や維持への協力を呼びかけている。

貨車を使った駅舎も、全国では少しずつ姿を消している。土木フォトライターによる2026年10月の全駅実地調査では、調査対象の「ダルマ駅」が2022年時点の29駅から23駅に減ったと報告された。これは全国を対象とした同調査の集計で、北海道だけの数字ではない。筬島駅は現在も残る駅の一つだ。実地調査の記事はこちら。

駅の外に出ると、花壇の向こうに山並みが見えた。かつて350人ほどが暮らしていた町の駅だと言われなければ、通り過ぎてしまうかもしれない。けれど、鉄道が通り、学校があり、冬には川に氷の橋を作った人たちがいた。そのことを知ってから眺めると、この一本の線路も、ただの静かな風景ではなくなった。

筬島駅は廃駅? 現在も列車は停まる?

筬島駅は廃駅ではなく現役の駅。宗谷本線の普通列車が停車する。村が維持に関わっており、今後の利用や維持について検討が続いているため、最新の運行状況はJR北海道の公式案内で確認してほしい。

筬島駅へ行くには?

場所は北海道中川郡音威子府村字物満内。国道40号側から筬島大橋を渡った先に駅がある。近くには旧筬島小学校を利用したエコミュージアムおさしまセンターがある。Googleマップで筬島駅の位置を見る。

当時の町並みを知る資料はある?

エコミュージアムが公開する筬島地区の年表と古い航空写真、旧筬島小学校の写真が大きな手掛かりになる。昔の住宅地の位置までは、今回の取材だけで断定できない。ただ、今の地図と比べる価値のある資料が残っている。

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主な参考資料

※地区の人口・駅設備・橋の歴史は上記資料をもとに記載。駅名の語源、待合室への転用時期、過去の住宅配置など、断定できないものは説・推定として区別した。写真は筆者が現地で撮影したもの。

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