北海道士別市朝日町、天塩川上流の山間に、かつて上似峡(かみにさま)という集落があった。
1933(昭和8)年に入植が始まり、1966(昭和41)年には全戸が移転した。開拓の始まりから、わずか33年。いま現地で目にするのは、住宅が並んでいたとは思えないほどの深い森と、その中に取り残された一棟のコンクリートブロック造の校舎だ。
その建物こそ、朝日町立上似小学校の跡。学校ができ、子どもたちが学び、そして誰も通わなくなるまで。この校舎を起点に、森の中から消えた集落の時間をたどってみたい。
上似峡と上似小学校の歩みを年表でたどる
集落が始まってから人々が去るまでの33年間に、学校は移築や新築を経験している。
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1933年 | 上似峡の入植開始。同年10月に上似特別教授場が開設 |
| 1948年 | 校舎を移築 |
| 1950年 | 上似小学校として独立 |
| 1955年 | 新校舎が完成 |
| 1966年 | ダム建設の影響で集落が全戸移転。12月1日に上似小学校が閉校 |
1933年、33戸が根釧原野から移り住んだ
上似峡の開拓は1933(昭和8)年に始まった。『角川日本地名大辞典』の「岩尾内」の項目によると、北海道第二期拓殖計画のもと、根釧原野から33戸の転住移民が似峡川上流に入植した。
新天地を求めて移り住んだ人々を待っていたのは、またしても厳しい自然だった。1934・35(昭和9・10)年の冷害凶作によって、多くが離農することになる。開拓開始から数年もたたないうちに、集落は大きな試練に直面していた。
同辞典には、1953(昭和28)年に残留者を含む28戸の開拓者が似峡地区に入地したことも記されている。「33戸」と「28戸」は同じ入植の数字を数え直したものではない。1933年の上流域への転住と、戦後の似峡地区への入地という、時期の異なる記録だ。
開拓が一度で順調に進んだわけではなく、冷害による離農と、その後の再出発があった。数字を追うだけでも、この地域の暮らしが幾度となく立て直されてきたことが見えてくる。
開拓の年に学校が開かれ、1948年には校舎を移した
入植が始まった1933年、その年の10月1日には「似峡尋常小学校上似特別教授場」が設けられた。士別市が公開する「『ふるさと士別』小学校のあゆみ」に記されている。
1947年4月に「似峡小学校上似分校」となり、1948年8月には校舎を移築。1950年1月、ようやく「上似小学校」として独立した。
開拓開始と同じ年に教育の場を設け、その後も校舎を移し、学校を独立させてきた。児童が通える学校を維持しようとする集落の歩みが、短い沿革の一行一行に残っている。
1955年、森の中にいまも残る校舎が建てられた
1955(昭和30)年11月12日、新校舎が落成した。士別市の学校沿革にある日付だ。現地に残るコンクリートブロック造の建物が、この新校舎に当たると考えられる。
士別市が公開する学校沿革の古写真とは対照的に、現在の建物にはブロック造の壁が残る。森の中で建物を目にしたとき、意外だったのはその存在感だった。屋根や窓の損傷は進んでいても、壁や玄関まわりの輪郭はまだ読み取れる。
かつて校庭だったと思われる場所には、いま草木が茂っている。学校の前に広がっていた空間と、現在の森。その落差を見ていると、集落が消えた後の長い年月が、木々の高さになって表れているように感じた。
校舎が完成して11年。水没しない集落も消えることになった
新校舎を建てた1955年から11年後、上似峡の暮らしは大きく変わる。きっかけは岩尾内ダムの建設だった。国土交通省によると、ダムの建設工事は1965(昭和40)年に始まり、湛水開始は1970(昭和45)年。ダム湖が生まれるより前に、人々の移転は進められていた。
下流の似峡市街地は、やがて湖底に沈む。一方、その上流にあった上似峡は、集落の土地そのものが丸ごと水没したわけではない。下流へ通じる生活道路が失われることで、そこに住み続けることが難しくなったのだ。
この違いは大きい。ダムができて水に沈んだ土地だけではなく、道路によって外の世界とつながっていた山間の暮らしも、ダム建設の影響を受けた。
士別市が公開する上似小学校の校歌には、冬の吹雪の道を子どもたちが肩を寄せ合って通う情景が歌われている。毎日通っていたその道が、集落の存続にとっても欠かせない道だったことを思う。
1966(昭和41)年、上似峡は全戸移転。同年12月1日、上似小学校は閉校した。開拓から33年、ブロック造の新校舎が完成してから11年余りだった。
集落から人が去った後、最後まで残った二人の先生
動画制作時に『朝日町史』『続・朝日町史』などをもとに整理した記録によれば、1966年11月半ばには住民の移転がおおむね終わっていた。それでも学校には、須田校長と大石先生が12月1日の閉校日まで残り、閉校に伴う事務を続けていたという。
ここで思い浮かべたいのは、廃校になった後の姿ではなく、まさに学校が閉じられようとしていた日々だ。
家々から人が去り、通学する児童もいなくなっていく。それでも学校は、書類を整理し、最後の日を迎えるまで学校であり続けた。北海道の山間部では冬が迫る時期。二人が残ったという記録は、上似峡の終わりが一日に突然訪れたのではなく、暮らしの一つ一つが順に閉じられていったことを伝えているように思う。
あのコンクリートの構造物は、以前の校舎の基礎なのだろうか
1959(昭和34)年には35人の児童が在籍していたとされる。閉校後の校舎は、営林関係者の詰所として利用された時期もあったという。
現地で撮影した写真では、コンクリートブロック造の校舎の左側に木々が続いている。実際にその左手にも足を踏み入れてみると、地面には別の建物のものと思われるコンクリートの基礎が残っていた。写真の校舎だけでなく、その隣にも、かつて何かが建っていたことをうかがわせる痕跡だ。
ここで手がかりになるのが、士別市の学校沿革に記された1948年の「校舎移築」と、1955年の「新校舎落成」という二つの出来事。現在残るブロック造の校舎よりも前に、別の校舎が使われていたことは確かだ。動画のサムネイルにも載せた古写真には、今とは姿の違う木造の学校が写っている。
左側に残る基礎は、1955年の新築以前に使われていた旧校舎のものではないだろうか。もしそうなら、古い校舎のすぐ隣に新しい校舎を建て、役目を引き継いだという配置も考えられる。1955年に新校舎が完成した後、旧校舎の建物は姿を消しても、その土台だけは残されたのかもしれない。
もちろん、この基礎が校舎の付属施設や別の建物に使われていた可能性もある。そこを確かめるには、旧校舎と新校舎の位置関係が分かる配置図や、当時の写真をさらに探したい。ただ、実際に校舎の左側に基礎が残っていることと、校舎が移築・新築を経てきた記録が重なると、「旧校舎の跡」という見方には十分検討する価値があると思う。
集落にあった住宅や農業施設の位置は、成長した森の中では容易に判別できない。そうした場所で、いまも形をとどめる一棟の校舎は、この土地に暮らしがあったことを伝える貴重な手がかりになっている。
動画で見る、深い森の上似小学校跡
写真では伝えきれない校舎の周囲の様子や内部、森に埋もれた建物の位置関係は、YouTubeの探訪動画に記録した。
動画「わずか33年で消えた集落・上似小学校跡」をYouTubeで見る
上似峡があった場所と、ニナの探訪マップ
場所は北海道士別市朝日町の山間部。現在の道の状況、林道の通行規制や立入可否は時期によって変わるため、現地へ向かう場合は管理者の案内を確認してほしい。また、老朽化した校舎への立ち入りは危険を伴う。
「暇人マップ」には、上似小学校跡地を含む北海道各地の探訪地点を登録している。地図内の「上似小学校跡地」のピンから場所を確認できる。
地図は上似峡周辺を中心に表示しています。中心座標は上似峡の観測所を目安にしたもので、校舎の正確な位置を示すものではありません。現地への立ち入りや通行にはご注意ください。
おわりに|校舎が残していた33年の記憶
1933年に人々が移り住み、学校が生まれた。冷害を乗り越え、校舎を移し、新しい校舎まで建てた。それから11年で、集落の暮らしは終わった。
上似峡が消えた理由を「ダム建設」とだけ書けば、一行で済んでしまう。でもその一行の中には、道を失うことになった家々があり、学校の最終日まで残った先生がいた。
集落にあった住宅は森に隠れ、往時の敷地を見分けるのも難しい。そんな場所に、学校の壁だけが今も立っている。
何もない場所に見えても、何もなかったわけではない。上似小学校跡は、そのことを静かに教えてくれる場所だった。
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北海道の集落と土地の記憶を、現地で記録した記事も公開している。
参考資料
- 士別市「『ふるさと士別』小学校のあゆみ」(1933年開設・1948年移築・1955年新校舎・1966年閉校、校歌)
- 『角川日本地名大辞典』「岩尾内」(1933年の33戸、1953年の28戸、ダム建設に伴う移転)
- 国土交通省 北海道開発局「岩尾内ダムの歴史」(1965年着工、1970年湛水開始)
- 『朝日町史』『続・朝日町史』(上似峡の開拓、全戸移転、閉校前後の記録。細かな記述・ページ数は確認中)
- ニナ北海道探訪「上似小学校跡」現地探訪動画
現地写真・映像はニナが撮影。校舎の沿革や集落の歴史については、本文中に挙げた郷土資料・行政資料を参照しています。

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