北海道幌延町。宗谷本線の雄信内(おのっぷない)駅は、2025年3月14日の最終営業をもって、約100年の鉄道駅としての役割を終えた。廃止から11日後の3月25日、そして駅舎が解体された同年10月21日。これまで5回以上足を運んできた雄信内駅前。そのうち、廃止直後の2025年3月25日と、駅舎解体後の同年10月21日の姿を写真で比較し、過去の訪問映像も交えて記録する。

2025年3月25日――列車が停まらなくなった駅
駅が廃止されても、3月25日の時点では木造駅舎が残っていた。ひび割れを補修した壁、木の外壁、入口の小さな庇。長年この場所に立ってきた建物の表情が、そのまま春の日差しの下にあった。

駅前に、かつて30~40戸の集落があった
今の駅前通りからは想像しにくいが、かつてこの一帯には商店や農業倉庫があり、鉄道貨物を扱う日本通運の拠点もあったと伝えられる。2025年2月の現地取材記事では、駅前に30~40戸の集落があったことが紹介されている。駅は単なる乗降場所ではなく、人と物資の出入り口だった。
駅前に商店や倉庫が集まった理由も、鉄道との関係から考えられる。道路輸送が今ほど便利ではなかった時代、駅は農産物や生活物資の集散点となる。駅前に店や住宅が並ぶことには、当時の交通事情に即した合理性があったのだろう。

駅前通りに残る、かつての商店の面影
駅前通りには、大きく崩れた古い建物が残っている。剥がれ落ちた外壁や傾いた柱を眺めていると、商店が並んでいた頃の町の姿に思いが向かう。

2025年3月の写真では、錆びた外装材と木材が重なり、建物の一部が崩壊していた。駅前に商店があったという記録と、この建物の姿を重ねると、いまは人影のない道にも、かつて買い物や荷物の受け渡しをする人々の往来があったことが見えてくる。
雄信内駅前の歴史――川を渡る暮らしから鉄道の町へ
この場所の歴史を考えるとき、最初に区別しておきたいのが、幌延町の「雄興(ゆうこう)」と、天塩川の対岸にある天塩町の「雄信内(おのぶない)」である。駅名は雄信内(おのっぷない)だが、駅の所在地は幌延町雄興。対岸の天塩町雄信内には別の集落があり、駅前が無人に近い状態になったことを、対岸の集落まで消滅したかのように書くのは正確ではない。
『角川日本地名大辞典 北海道』によれば、幌延側では1903(明治36)年頃にタンタシャモナイへの定住が始まり、当初は天塩川を渡る舟が生活の足だった。1925(大正14)年7月20日に鉄道が開通し、雄信内駅が設けられると、駅周辺にも市街地が形づくられた。1932(昭和7)年には天塩川に吊り橋の雄信内大橋が架けられ、川の両岸を結ぶ交通が改善された。
1959(昭和34)年に字名が「雄興」となったのは、対岸の天塩町雄信内との混同を避けるためとされる。「雄信内駅のある雄興」と「天塩町の雄信内」を分けて地図で見ると、駅前集落の成り立ちが分かりやすくなる。
旅館、魚屋、豆腐屋、運送店――駅前に集まった商い
『幌延町史』(1974年)を引用した鉄道史調査記事には、鉄道開通前後から昭和初期にかけて、旅館、商店、食堂、料理店、豆腐屋、鉄工場、大工など、多様な商いが駅周辺に現れたことが記されている。駅の開業とともに運送店も営業を始め、鉄道が人だけでなく物資を運ぶ地域の拠点となった。1932年には竹内義一による魚屋の開業も記録されている。
1970(昭和45)年頃の商業施設としては、竹内商店、桑原商店、中道鮮魚店、津田商店、日本通運雄信内営業所などの名前が記録に残る。2018年の幌延町広報誌にも、かつて旅館・豆腐店・料理店・工務店・鉄工所などがあり、昭和45年には食料品店・鮮魚店・菓子店・日通が営業していたと紹介されている。現在は静かな駅前通りにも、かつては人々が暮らし、買い物や荷物の運搬を支える店や事業所が集まっていた。
人口の推移――数字で見る雄興の変化
『角川日本地名大辞典 北海道』には、雄興の世帯数・人口として、1960(昭和35)年52世帯236人、1965(昭和40)年50世帯224人、1975(昭和50)年26世帯84人という数字が記されている。わずか10年で、1965年の224人から1975年の84人へと大きく減ったことが分かる。
これらは駅前だけではなく、雄興全体の人口である。1970(昭和45)年には、雄興38世帯のうち25世帯が駅周辺に住んでいたという記録もある。駅前には商店主や鉄道関係者、その家族らの住まいがあり、駅を中心に一つの集落が形づくられていた。
雄信内小学校があった時代
幌延町の史跡案内によれば、雄信内尋常小学校は1937(昭和12)年に開校。1958(昭和33)年には新校舎、1967(昭和42)年には屋内体育館が完成した。児童数や教員配置の変化を経て、1982(昭和57)年に閉校している。
1958年に新校舎が建ち、1967年には屋内体育館も完成した。校舎や体育館が整備された時代、この地域には学校に通う子どもたちがいた。1982年の閉校は、駅前から商店が減っていった時代とも重なる。
道路と橋が変えた生活圏
雄信内大橋が架けられた1932年は、川を隔てた二つの集落の交通史にとって大きな節目だった。さらに『角川日本地名大辞典』には、1965(昭和40)年に、事故が多かったタンタシャモナイと雄信内駅の間で下平トンネルが完成したとある。川や山に囲まれた土地では、橋・道路・鉄道の整備が、そのまま通学や買い物、物流の条件を変えていった。
やがて自動車が普及し、買い物や荷物の運搬も鉄道駅を中心とする時代から変わっていった。駅前に集まっていた商いは少しずつ姿を消し、かつて人の往来があった道に、静けさが広がっていった。
「秘境駅の里」を掲げた幌延町と雄信内駅
駅前の商店や住宅が減った後、雄信内駅は別の形で注目を集めるようになった。幌延町は2015(平成27)年度から「秘境駅の里『ほろのべ』」を掲げ、町内の無人駅を観光資源とする取り組みを進めた。同年の牛山隆信氏による秘境駅ランキングでは、町内6駅が全国100位以内に入り、自治体別で最多だった。
2015年10月31日から11月1日にかけて開催された「秘境駅フェスタ」では、雄信内駅にも特設会場が設けられた。駅弁や鍋の販売、模擬きっぷ、国鉄制服やレトロバスを使った撮影会などが企画され、かつて交通や物流を支えた駅が、今度は駅そのものを訪ねる人々を迎える場所になった。
その後、JR北海道から無人駅の廃止または自治体負担による維持管理を求められ、幌延町は2021年度から雄信内駅を含む5駅の維持費を負担した。しかし駅舎の老朽化は進み、雄信内駅では屋根・外壁・床の修繕に総額約800万円、うち町負担約300万円が見込まれた。町は2024年度末で雄信内駅と南幌延駅の維持管理を終える判断をした。秘境駅として人を呼ぶ価値があっても、鉄道駅として維持し続けるには費用と利用実態という別の問題があった。
白寿祭から百寿祭へ――駅が迎えた最後の節目
廃止を控えた2024(令和6)年11月3日、地元有志による「雄信内駅白寿祭」が開かれた。開業99周年に合わせた催しで、クラウドファンディングには115人から62万2,500円が集まった。主催者の報告によれば、雄信内駅会場には200人を超える人々が訪れ、地域の人々と各地の鉄道愛好家が交流した。日常の乗降客が少なくなっていた駅前に、この日は多くの車と人が集まった。
2025年3月14日、雄信内駅は最後の営業日を迎え、翌15日に廃止された。それでも開業100年の節目は見送られなかった。開業日のちょうど100年後に当たる7月20日、旧駅舎で「雄信内駅百寿祭」が開催された。駅舎は一日限定で開放され、旧駅の物品展示、記念品の配布、物販、飲食の提供、餅まきなどが行われた。幌延町の広報誌にも、駅舎前に集まった参加者の写真が掲載されている。
1925年7月20日に開業した駅は、100年後の同じ日、列車を待つ場所ではなく、その歴史を祝う場所として人々を迎えた。百寿祭の時点で駅舎の年内解体は予定されていた。2015年には町の秘境駅フェスタの会場となり、2024年には有志が白寿祭を開き、2025年には営業を終えた駅の百寿祭が催された。駅を残そうとする取り組みと、駅との別れを受け止める催しが、最後の10年間に重なっている。
なお、幌延町の公式サイトには現在も「秘境駅の里」という表現を用いた事業紹介が残り、町は廃止した2駅以外の無人駅について維持管理を継続する方針を示している。雄信内駅の廃止だけをもって町が秘境駅の取り組みを全面的にやめたとはいえない。一方で、観光資源として位置づけた駅をすべて残せたわけではないことも確かだ。
関連資料:幌延町「秘境駅フェスタ」、幌延町「あなたが守る秘境駅プロジェクト」、広報ほろのべ2024年8月号、雄信内駅白寿祭実行委員会の開催報告、広報ほろのべ2025年8月号。
なぜ雄信内駅は廃止されたのか
雄信内駅は1925年7月20日に開業した。幌延町は2021年度から町内の複数の無人駅の維持管理費を負担していたが、雄信内駅と南幌延駅については2024年度末で維持管理を終了する方針を決めた。雄信内駅では、老朽化した駅舎の屋根・外壁・床を修繕するため、町負担分だけでも約300万円の費用が見込まれていた。
商店が閉じ、駅前の家々が減ってからも、雄信内駅には列車が停まり続けた。町の賑わいが遠い昔のものとなっても、駅舎はこの場所に残っていた。その駅も2025年3月、ついに役目を終えた。
2025年10月21日――駅舎のない駅前へ
同じ年の10月21日、再び訪れた。3月には残っていた駅舎は解体され、砂利の広がる空間に変わっていた。駅舎があった場所は砂利で覆われ、立入防止のロープが張られていた。一方、向かい側には錆びた鋼材で縁取られたコンクリート製のホームが残り、その背後には秋草が生い茂っていた。ホーム上には、駅名標が取り外された白い金属製の枠が残っていた。



同じ道路、違う季節
2025年10月、駅舎があった側から駅前通りを撮影した。写真の手前、砂利が広がる側が駅跡。雨に濡れた道路は、かつて商店や住宅が並んでいた集落の方へと延びている。駅舎を背にして眺めるこの道も、今では両側に木々や草が茂り、往時の賑わいを想像するのは難しい。



崩れた建物も、春と秋の写真を並べることで、わずか数か月の間の姿を比較できる。建物の来歴を探ることと同じくらい、その変化を日付とともに残しておくことにも意味がある。
映像で見る雄信内駅と駅前
雄信内駅と駅前には、これまで5回以上訪れてきた。以下はその記録のうち、公開している4本の映像である。新しいものから古いものへ並べた。写真だけでは分かりにくい道の続きや、時期による風景の変化も映像からたどることができる。
比較的新しい時期の記録。駅舎や駅前の姿を、映像でも振り返る。
2021年に撮影した雄信内駅前の記録。駅舎が残っていた頃の道路や周囲の建物を、現在の風景と見比べることができる。
さらに以前に訪れた際の映像。道路の両側に残る建物や、駅前の様子をたどる。
こちらは今回紹介する中で最も古い映像。かつての駅前通りを、現在の写真と見比べながらたどってみたい。
あわせて読みたい――北海道の廃駅を訪ねて
同じ宗谷本線では、抜海駅の木造駅舎と解体の記録も紹介している。また、廃止後に残された駅の風景は、日高本線・本桐駅跡を歩いた記録でもたどることができる。
駅舎が消えても、駅前通りは残る
かつて駅前には商店が並び、列車を待つ人がいて、学校へ向かう子どもたちがいた。荷物を運ぶ人の声も、買い物帰りの足音も、今は聞こえない。
それでも道は残っている。季節が巡れば草が伸び、雪が積もり、春にはまた土が顔を出す。駅舎が姿を消したあとも、この道はかつての町へと続いている。
駅舎も商店も姿を消したが、道の先には今もかつての集落があった場所が続いている。何もないように見えるその道を、かつては何十もの世帯が行き来していた。
参考資料:幌延町・南幌延駅/雄信内駅を見送る会、幌延町・駅廃止受け入れについて、トラベル Watch・雄信内駅前の歴史、幌延町・開駅100周年。


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