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「異世界への入口」の正体は旧富丘駅への階段だった|名寄本線と富丘の歴史【北海道興部町】

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北海道興部町の旧名寄本線富丘駅跡に残る、錆びたアーチ状の屋根付き階段 【探訪・記録】
草木に囲まれた旧富丘駅への階段。

北海道紋別郡興部町、オホーツク海に近い富丘。草むらの向こうに、錆びた半円形のアーチがいくつも重なっている。SNSでは「異世界への入口」と呼ばれ、色や光を大きく加工した幻想的な写真も出回っていた場所だ。

でも、実際はどうなのだろう。写真のような不思議な景色が本当にそこにあるのか、現地の様子を動画で撮ったらどう映るのか。そんな、少し意地の悪い好奇心からこの場所へ向かった。

階段の正体は、1989年に廃止された旧国鉄・JR名寄本線「富丘駅」へ通じる、雪よけの覆いが付いた通路。現地で見た姿と、鉄道が走っていた頃の記録を照らし合わせながら、あのアーチが何のために造られ、何を残しているのかをたどってみたい。

草むらの向こうに残された、半円形の階段

草花の向こうに現れる「異世界への入口」。

遠くから眺めると、草に埋もれた入口だけが取り残されたように見える。鉄骨は赤茶色に錆び、周囲の笹や草木は通路のすぐそばまで迫っている。けれど、繰り返し連なるアーチと透光性の屋根は、今もはっきりと形を保っていた。

階段に足を踏み入れると、覆いのある通路は思いのほか長い。左右には手すりがあり、屋根の骨組みが一定の間隔で続いている。冬の風雪を避けながらホームへ向かうための、実用的な造りだったのだろう。

半円形の骨組みが階段の奥まで連なっている。

内側に入ると、幾重にも続く鉄骨のアーチが階段の奥行きを際立たせていた。赤錆の浮いた骨組みと色褪せた屋根には、駅が廃止されてから重ねてきた年月が表れている。

この先にあったのは、名寄本線の小さな駅

富丘駅は、名寄駅と遠軽駅を結んでいた名寄本線の途中にあった。隣駅は沙留駅と渚滑駅。名寄を起点に81.4kmの位置にあり、単式ホーム1面1線の小さな無人駅だった。駅舎はなく、ホームとは別に待合所が設けられていたという。

駅の歩みを年代順に整理すると、次のようになる。

  • 1956年9月1日 国鉄の「富丘仮乗降場」として開設。
  • 1987年4月1日 国鉄分割民営化に伴いJR北海道へ移管され、「富丘駅」に昇格。
  • 1989年5月1日 名寄本線の全線廃止に伴い、富丘駅も廃止。

仮乗降場として開かれてから、鉄道の歴史は約33年。一方、正式な「富丘駅」という名前で営業した期間は、わずか2年1か月ほどだった。

「33年で消えた駅」というだけでなく、仮乗降場という小さな停車場所から正式な駅へ変わった直後に、路線ごと廃止されたことが、この場所の歴史を特徴づけている。

[参考:富丘駅の基礎データ・出典文献、名寄本線の路線史]

1989年の写真に写っていた、現役最後の姿

鉄骨のアーチが連なる旧富丘駅跡。

廃止の直前、1989年3月19日に富丘駅を撮影した写真が公開されている。そこには雪に囲まれた木造ホームと、その奥に見える、今と同じ半円形の階段覆いが写っていた。

[当時の写真:1989年3月19日撮影・富丘駅(RAILScenery)/撮影者による名寄本線の記録]

1989年の写真には、板張りのホームと線路、駅名標が写っている。階段の覆いは、確かにそのホームへとつながる通路だった。現在の風景ではホームや線路が姿を消し、駅への道だった階段がひときわ目立つ。現役時代には脇役だった通路が、駅跡を象徴する存在になったことが、二つの写真から伝わってくる。

撮影者はオムシャリ沼の鉄橋を撮るために富丘で途中下車したと記している。この駅は、地元の人々だけでなく、鉄道を追って訪れた人の旅の記憶にも残っていたのだ。

廃止直前の富丘駅の姿は、上記の当時の訪問記録で詳しく見ることができる。

なぜ駅への通路が、長い階段になったのか

道路側から見上げた階段。かつて乗客はここを上ってホームへ向かった。

富丘駅のある場所は海岸沿いの段丘地形で、かつてのホームは周囲の道路より高い場所にあった。道路と駅を行き来するためには、段差を越えなければならない。そのため設けられたのが、今回撮影した覆い付きの階段だった。

駅跡の近くに残るコンクリート製の箱型通路。

階段の上部は、かつて木造ホームがあった高台の駅側。下った先は道路側へ通じていた。周囲の地形を知ってから見直すと、この階段は孤立した不思議な建造物ではない。道路と鉄道という、高さの異なる二つの交通路をつなぐための施設だったのだ。

道路から階段を上がり、ホームに出て列車を待つ。かつての利用者にとって、あのアーチは特別な場所へ誘う入口ではなく、暮らしの中にあるありふれた通り道だったのだろう。

同じアーチがいくつも連続するのは、階段に長い雪よけの覆いを掛けるため。透ける屋根は昼の光を取り込み、側面の囲いは海沿いの風雪を遮ったのだろう。1989年3月の写真には雪の残る駅の姿が写っている。今は奇妙に見えるアーチが、冬にはどれほど実用的な通路だったことか。当時の写真を見てから現地の階段を眺めると、朽ちた鉄骨の意味も違って見える。

「富丘」という駅名の由来と、仮乗降場が生まれた頃

階段の先にかつてあった駅は、なぜ「富丘」と呼ばれたのか。『興部町百年史』を典拠とする駅名資料によれば、周辺の段丘地帯は古く「思沙流」と呼ばれていた。1951年の字名地番改正で、開拓の先駆者の名から「富」を取り、地形の「丘」と合わせて「富丘」と名付けられたという。

興部町の広報には、1945年に大阪からの引揚者10戸が高台・住吉・富丘の3地区へ入植したとの記録もある。戦後、新たに生活を築く人々が加わった地域で、富丘仮乗降場が設けられたのは1956年だった。鉄道が通っていたことと、その場所で列車に乗れることは違う。1921年に名寄本線が全通してから、富丘に乗降場ができるまでは35年を要した。

その35年間、線路は地域のそばを走りながら、富丘には停まらなかった。小さな乗降場でも、周辺から列車を利用したい人にとっては大きな意味があったのではないだろうか。買い物や通院、仕事などで町へ向かう日々。この階段は、そうした往来を支えた通路だったと考えると、錆びたアーチの印象も変わってくる。

[資料:興部町「広報おこっぺ」2018年7月号・おこっぺ130年の歴史、『興部町百年史』(地名資料の典拠)]

1978年の空中写真と、今の景色を重ねる

現役時代の富丘仮乗降場については、1978年撮影の空中写真を基にした図も公開されている。現在の写真では笹や草木が大部分を覆っているが、当時は線路と細長いホーム、待合所の位置関係を上空から確かめることができる。

[比較資料:富丘駅の1978年空中写真と駅構造/国土地理院:富丘駅付近の1974~78年撮影航空写真レイヤー]

1978年の空中写真には、まだ鉄道が地域の風景の一部だった頃の姿が残っている。廃止直前の1989年の写真にはホームに降り積もる雪、そして現在の写真には緑に覆われた階段。同じ場所を時代を変えて眺めると、列車の行き交った日常が少しずつ遠ざかっていったことを感じる。

残った階段が特別なのは、単に「廃墟として美しい」からではない。鉄道が走っていた場所の高さや、道路とホームの位置関係を、現地に立って確かめられることだと思う。

名寄本線が廃止され、階段だけが残った

名寄本線は名寄―遠軽間138.1kmに、中湧別―湧別間4.9kmの支線を加えた路線だった。1921年には名寄側とオホーツク側の線路がつながり、長く地域間を結ぶ鉄道として走った。

しかし、1980年代の国鉄再建と地方交通線の整理の中で、名寄本線も廃止の対象となる。最後の列車が走ったのは1989年4月30日。翌5月1日付で全線廃止となり、富丘駅も姿を消した。

1989年の写真に写っていた木造ホームや線路は、現在の風景には見えない。一方で、駅への出入口だった階段覆いだけが残り、緑に囲まれている。駅舎でも車両でもない、普段は脇役だった設備が、今は富丘駅の存在を最もよく伝えている。

おわりに|異世界への入口の、その先にあった日常

野花の向こうに残る、かつて駅へ通じていた階段。

フランスギクらしき白い花を手前に入れて、もう一度あのアーチを眺めてみた。透ける屋根と赤錆の骨組みは、たしかに少し非現実的な姿をしている。

けれど、この階段の先にあったのは異世界ではなく、小さな木造ホームと、そこで列車を待つための場所だった。

1956年に仮乗降場として開設され、1987年に正式な駅となり、1989年に廃止された富丘駅。今に残ったのは、駅そのものというより、駅へ向かうために人々が使った階段だった。列車に乗りに来た人にとっては何でもない通り道。それが年月を経て、訪ねる人を惹きつける「異世界への入口」になった。役割が失われた建造物が、違うまなざしで再発見されることもあるのだと思う。

今はもう列車の来ない場所で、階段だけが昔の道筋を示していた。

富丘駅跡の場所・探訪マップ

旧富丘駅跡は、北海道紋別郡興部町字富丘にある。下の地図は、これまで訪ねた北海道各地の探訪地点をまとめたマイマップ。富丘駅跡の位置はGoogleマップでも確認できる。

ニナの探訪マップを大きく開く

動画で見る「異世界への入口」

今回の写真だけでは伝わりにくい、アーチの奥行きや階段の長さは、現地で撮影した短い動画にも残している。

参考資料・関連する記事

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